2012年5月24日木曜日

近代科学再考(食べる読書99-1)




以下抜粋

われわれが歴史へと向かうのは、廣重の用いていることばを借りれば、「問題を徹底的に考える」ためなのである。


自然現象はある普遍的な法則に従って生じており、その法則は認識可能であるということをわれわれは自明の前提としているのである。


ここ(力学)では、あらゆる物体の力学的なふるまい、運動が、それを質点同士の力のつり合いと質点の運動とに還元することによって解明される。


すでに17世紀にライプニッツは、普遍的な思考の学、普遍学なるものを要素論的につくりあげることを企てた。彼は、人間の思想を構成する単純概念を発見し、それを記号化し、それらの間の結合法則を確立するならば、あらゆる思想、あらゆる学問は記号計算、思想の代数学によって導かれるであろうと考えたのである。


物好きな人間がいようがいまいが、科学の研究は進行する。科学は一つの社会的制度となっているのである。


専門的な述語を確立することは、同時に一つの科学を確立することであったのである。


単位がないから、量を数値で表すことができない。したがって、数学的に扱えるのは、同種の二つの量の比だけに限られることになる。


科学に基礎づけられる近代的技術が可能となったのは、単位系の確立のおかげであったとさえいえよう。


科学の制度化とは、科学がその出生に由来する余分の要素を切り捨て、合理化されてゆく過程でもあった。その過程をへて、科学はどこへでも移植できるものとなったのである。


明治以後の日本が移植したのは制度化された科学であり、それは文化的な伝統や自生的な発展とは独立に、あるいはそれをおしつぶしてでも移植されうるような「合理化」された科学であったということが、明治以後の日本の科学史にとっては決定的なことであってように思われる。


科学なしには工業化社会はありえず、逆に科学は、工業化社会において役立つものとしてのみ、その存続・発展の社会的条件が保証されている。


要素を抽出することによって成立した部分的認識は、その部分において有効であるということ自体によって、逆に全体に対しては無力であらざるを得ないのである。


技術化は科学そのもののレベルで認められる特質であり、体制化はこの社会のなかでの科学の位置づけにかかわる特質であるといえる。


体制化とは、科学が現存の社会秩序を維持するための不可欠の要素となり、その結果として、この社会秩序の中に科学の維持発展のための制度的装置がそなえられ、この社会秩序をはなれてはもはや存在しえないものとなったことを指している。


科学の前線配置は、科学の内的必然性といったようなもので決まるのでなく、社会的に規定されるものであることを認識せねばならない。


科学は国際的であり、その色彩は近年ますます強まっているが、その結果、科学の前線配置もきわめて国際的に均等化され、国による違いは今はない。


業績の高低の客観的測定ということがそもそも一つの幻想でしかない。人間の認識に新しい地平を開くような研究とは、現在の科学の諸前提・諸枠組みをうちやぶってゆくものであったとは科学史の示すところである。しかしそういう研究こそもっとも判定のむずかしいものである。比較的容易に客観的評価の下せそうな研究とは、確立されたいまの科学の守備範囲内にあるもの、したがって、いきおい技術的性格の強い研究ということになる。


現在われわれが住んでいる社会秩序は、その物質的な豊かさにもかかわらず、いたるところでメカニズムによる人間的抑圧にみちており、大多数の人々がそこに堪えがたさを感じている。現代の体制化された科学は、そのような社会秩序の維持に奉仕するために、体制の不可欠の要素としてそこに組み込まれているのである。


ある技術を入れて活用するためには、それに関連したすべての技術が必要となるが、そんなものが備わっているわけはないから、結局、先進国から製品の形でいれるほかない。こうして、技術援助はじつは市場開拓、資本進出の尖兵としての役割を果たすことになる。経済的従属がかえって深まり、新植民地主義とよばれる事態がそこからもたらされたのは意外なことではない。


多くの学生が、意識的、無意識的に、大学に課されているのは現行体制の規格化された部品としての、一定の知識・技能をもった労働力商品に加工されるべき客体にすぎないと感じており、ここに学生が大学生活に対していだく深い失望と不満の根元がある。



元素概念が確立されたことは、物質世界の質的多様性と質的変化との全体を通ずる要素的単位が確定された事を意味する。こうして、化学を機械論的近代科学の軌道にのせるための、第一の前提ができあがったのである。さらに、ラヴォアジエによって定量分析の意義が判然となり、化学方程式が創始された事は、化学を力学・天文学と同じ数理的方程式の列に近づけるものであった。



自然科学の真理は、唯一絶対で普遍的なものであり、ひとたび見出された科学の法則は、どこまでも妥当性を主張しうるものと信じられたのである。しかしこれは、人間の自然認識が相対的であり、部分的なものであることに気づかないために生まれたオプティミズムにすぎなかった。



ある実験によってある結果を得たとすると、この知識をもとにして、その後の波動関数の変化のようすを知ることができる。そうして決定される波動関数は、その同じ系に対して、そののちにある物理量の測定を行ったときに得られる値の、確率的分布をきめる。


古典物理学では、実験と微分方程式の表す法則とが密着していたが、量子力学では、基本法則と実験によって得られる知識とが分離され、そのあいだが確立によってつながれるのである。


公理主義的な観点からすれば、数学は、任意の公理系のうえにうちたてられる形式的な理論の体系である。公理系をとりかえれば、それに応じて異なった数学がつくられる。数学的真理はいまや、唯一絶対のアプリオリ性のうえに立つものではない。これに対して物理学は、もちろん形式的な理論の体系ではない。それはつねに客観的な自然を相手としなければならない。


なるほど、次々と新しい装置が作られるのに応じて、いわゆる新事実は発見されている。しかし人々は、この過程をどのように方向づけてゆくべきかの確固たる指針をもたないようにみえる。それらの発見によって、自然に対する理論的認識が何ほどでも深化したかどうか、はなはだはっきりしない。理論物理学者の大部分は、その場その場の実験結果との応接で日を送っているだけである。…、理論物理学者は、そのときそのときの実験データを処理してゆきさえすれば目的を達する、という立場を公言する人が少なくない。その人たちは、全素粒子を一つの、あるいは数個の原初的実体の結合と変容によって表現する、という目標を追求している。しかし、この立場は、単一の原理から全存在を導きだそうとする志向において、ときに一つの自然哲学あるいは一種の形而上学におちいるおそれなしとしないのである。


どの範囲をとらえて全体というかは、全体が認識されたあとでなければ明確に言うことができない。だから、けっきょく分析的方法による部分的認識をつみ重ねることだけが科学たりうるのだ、という立場が成立するであろう。


分子生物学は多くのことを明らかにしたけれども、その名前のとおり、それは核酸やタンパク質の分子の行動を追求するものである。


多数の細胞を秩序ある体制に編成し、全体を調和的に動作させてゆくためには、全体をよくコントロールする機構がなければならず、そのような機構がうまく働くためには、各部分の状況を的確につかみ、それに応じて各部分に指令を与えることができなければならない。そのためには、生体内にたえず情報が流通していることが必要である。こう考えるならば、じつは個体としての生物を理解するためにも、あるいはそのためにこそ、情報という概念は不可欠である。


一般に自分で自分の状態を制御しながら、外部からの入力に対して適切に対応してゆく働きをもつ系は、すべてそのなかに、コントロールのための機構をもつとともに、情報を伝え、処理する機能をもたなければならない。生物体にしろ、電子計算機その他の自動機械にしろ、この観点からみるとき、いずれもその働きは共通のパターンをもつのである。こうして、このパターンを一般的に論ずる科学、生物と機械における制御と通信の理論、としてのサイバネティックスが生まれた。


科学は部分をとりだしての認識であったが、技術はつねに全体がどう働くかに関心をもたねばならない。このような特色をもつ技術において、確率的把握が物理学因果的な把握よりもしばしば有効であることは、きわめて納得のいくことである。


サイバネティックスは、対象を要素とその運動とから構成的に理解し、把握することができる、という観点からはなれている。それはむしろ、さまざまな全体としての現象をパターンにおいてとらえ、それら諸パターンの共通性、パターンとパターンの移行・連関にみられる法則性を追求しようとする。



原理的に言えば、情報理論の対象となしうるような情報に対する、記号論理化することのできる操作に帰着できるかぎりの思考活動は、すべてオートマトンにやらせることができる。


昭和の戦前・戦中において、大学の理学部はアカデミズムの象徴から社会的実用にこたえる機関へと変貌したということができるであろう。



こんにちの科学の研究は、大学におけるものも含めて、与えられた条件のもとで既存の手段をうまく使いこなして、与えられた課題を解決するという「技術的」な研究が大部分を占めることになる。


若い研究者は、すでに与えられている軌道のうえを早くスマートに走ること以外に学問的野心というようなものは持たないようにみえる。


その研究の多くはルーチン化しており、こんにちの科学の全状況を根底から批判し、まったく新しい学問的視野をひらこうというものは少ない。その根源的な理由は、以上にみてきたように、体制化されたこんにちの科学が深い疎外におちいっていることにある。それをつきやぶって、ゆたかな学問的創造性を獲得するためには、あれこれの研究機構のプランを練ったり、研究連絡の組織をいじったりという技術的なことだけでなく、いわんや、東京オリンピック以来ナショナルな合言葉になったかのような”根性”などではなく、こんにちの科学を規定している社会的基盤にまでつき進むするどい批判こそが何よりも必要であろう。



われわれが追及すべきは、こんにちの科学の前線配置を変え、その野放図な、反人間的な発展をおさえることでなければならない。そのためには、科学の体制的構造を変えること、そこへ至る道として、科学のコントロールの主導権を資本や国家からわれわれの手にとりもどす努力が必要である。


科学は、いわば全人民的なコントロールのもとにおかれねばならないであろう。


科学はそれ自体として善であり、科学はとにかく科学としてまず発展させるべきだという価値観は、いまや転換されねばならないのである。


力学の基本法則も経験的事実の集約にほかならず、決してアプリオリな数学的真理ではないこと、したがって、物理学のほかの分野の法則よりも優位におき、それを物理学の確実な基盤とみなす根拠はどこにも存在しない


科学の革新は、「それまでに存在しなかった問題を、問題として意識するような視座の獲得とともに」はじまるのだ。相対性理論はまさにそうした意味での革新であった。


科学の研究目標となる問題は、客観的に自然から人間に向けて投げられるものでなく、人間がその自然観・科学観にもとづいて自然に対して問いかけるものである。科学研究の問題は自然観・科学観と相関的にのみ設定される。


to be continued ・・・




0 件のコメント:

一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...