2012年5月2日水曜日

魂を養う教育悪から学ぶ教育(食べる読書92)




著者のこれまでの作品からの文を抜粋してテーマごとにまとめてある本。


以前堺屋太一さんの本でこのようなコンセプトの本を読んだ。


文脈がない分その文章の意味を自分でいろいろ考える。そういう意味で、ただ字面だけでは読めない本なんだろうと感じた。


情報過多の現代、本質がどこにもないように感じる。そんな中、著者の考えは新鮮であるし、自分を見つめるとはどういうことかというヒントも何かしら得られるのではないかと感じた。


よって、本書の文章を味わい、楽しむことが大切かなと思う。


以下抜粋


しなければならないことは強制的にさせ、したいこともさせる、その両面をカバーするのが、人間を創ることだ、とは思わなかったのである。


教育が模倣と強制に始まり、独創性と自発性に発展する例だが、こういう体験、こういう成り行きは、決して私一人が体験した特殊例でもないだろう。


ボランティア活動は、人間の共通の運命に対して深い認識を持った時にしか、その意味を理解できない。


子供は、幼いうちから、できるだけ早く、人のお役に立てる子であるように訓練し、それを褒めてやらなければならない。しかし現実は反対だ。国民は無限に国家に要求し、それが当然の人権であり、時には人のために働けなどと強制される不自由は、個人の自由の侵害、となるのである。


教育の根本は、まず自分をただすことである。


今の教育は、知ることに血道を上げていて、それを「料理する」哲学のことは考えていない。教養と創造力がなければ知識をその人らしく活用することなど、全くできないのである。


教育というものの根本は効果を期待してはいけないということにある。


教育とは、(私流のいい方をすれば)自分の不利益になることでも、時には自己をさし出せる程度に、強く自由で人間として豊かな考え方をできるように、自分を開発するのを目的とする場所なのである。


徳というのは、満足を生み出す能力だ。それは教育のあるなしにかかわらず天からこっそりある個人の懐に降ってきた星のように感じられる。


力が悪いのではないのである。力の使い方を間違える時に悪くなるのである。その点をはっきりと、子供たちに教えるべきであろう。


どんな正当な意見でも匿名を希望する場合には、そこにすでに「効果だけは自分の功績で、それから起こる問題の責任は引き受けない」というカビのように湿った匂いがする。


人権については、あちこちで討議されるが、愛については現代日本ではほとんど真剣に考えられることがない。


学校であれ、家庭であれ、教育が行われる場所がもし健全に機能しているとすれば、それは、その場所が、人生の明暗を教えているからだ。当然明も教えるが、図らずも暗も教えるから意味があるのだ。


個性は自分で創るのだ。どこででも、いかなる環境ででも、その気さえあれば、ということだ。


日本の教育に、必要なことは、人間は誰もがどのような悪をもなし得ると同時に、どのような崇高な行動をも取り得るという、その両極をはっきりと認識し、教えることである。


人間は、自分の弱みや卑怯さを知った時、人間の哀しみというものに気づいて、共通の運命に対するやさしさも出てくるのです。


健康は他人の痛みのわからない人を作り、勤勉は時に怠け者に対する狭量とゆとりのなさを生む。
優しさは優柔不断になり、誠実は人を窒息させそうになる。


よく世間では「正直者が損をする」と言うけど、正直者はもともと損をするのも承知で正直なのよ。


道徳というのは他人を思いやることである。


自分が手にしている状態はどれも、大切なものですが、かと言って執着してもいけません。大切に思うことと、執着することとは別です。


よくも悪くもない人生、ではない。人生はよくも悪くもある、のである。それを味わう方法が学問であり、それに至る道が教育であろう。その道を天文学や物理学でみつけた人もいるし、電気的な新しい機器の開発で探った人もいる。


教育の責任者の第一は、自分である。少なくとも、小学校五、六年くらい以降は教育の責任のほとんどは自分にある、と言わねばならない。


家庭内暴力を振るう子供のほとんどは、家で大切にされ、親から用事を言いつけられたようなこともなく、お客さん扱いされているだけで、家族が生きる運命を自分も共に担っているという光栄を一度も自覚したことがないのだろうと思う。だから暴力でも振るってみせて、自分はこんなに力があるんだぞ、と示すほかはないのでしょう。


親は初めから、文部科学省や学校や世間は子供に何も教えてくれない、と思ったほうがいい。敬語の使い方を教えるのも、いじめに負けない子に育てるのも、全部、親の仕事だと覚悟すればいいのです。


西部に移住したアメリカの移住者の子は、幼いころから、馬に乗り、木を切ったり、水を汲んだり、家を建てたり、牛を飼ったりすることを覚えた。生活に参加することすなわち、しつけであった。


人間は、ひとからもらう立場にいる限り、決して、満足することもなく、幸福にもなれない、というのが現実である。人間は、病人であろうが、子供であろうが、老人であろうが、他人に与える立場になったとき、初めて充ち足りる。



知的であることだけが教育で、その教育を受ける生身の人間が生存を続ける方法を教えなかったのだからおかしなものだ。


何を望むか、とこまかく考えて行えば恐ろしくて何も望めなくなるものだが、それでも親というものは野放図に、始末の悪い無邪気さと恐れのなさで、子供の教育の目標というものを簡単にうち立てるのである。その横暴な圧政をかなり平気で強いているのが、我々親たちの本当の姿だと思ってさしつかえない。


自分を失った人間は、もはや真の意味で人間ではなく、真の人間でないものに、動物以上の訓練ーーつまり教育を期待することはムリだからである。


職場でも先任者には、敬意を払うのが当然である。私たちは一日の長のある人には、教えを乞うのである。


心理的、経済的に、貧困と潤沢の双方の中で、子供たちは人生を学ぶ。とにかく現実的に刺激をシャワーのように受け、その結果に苦しまなければ人間は決して成長しない。


人は再起不能なほど不幸に傷つきもするが、その傷を犬のように自分で舐めて癒し、そこから前よりも強くなって立ち直ることもある。


今から約半世紀前の原爆でも空襲でも、多くの子供たちが、地獄を見た。焼死体の山を見、親を失い、食べるものも着るものもなく焦土をさまよった。それでも多くの人たちは、すばらしい性根を持った大人に育った。苦労を知っているがゆえに、平和への希求も苦悩に耐える精神力も強い心の温かい人間になったのである。


親も子供も早くから、人間社会には神の如き正しい評価などありはしないのだということを、はっきりと、腰をすえて知るべきなのである。


子供たちにとって、大切なのは、不当なる評価を受けてそれに耐えられる精神力をつけることなのである。


子供たちを競わせることを、どうして恐れるのだろう。人間全体を競うことなど、そもそも、初めから全く不可能なことなのだ。だからこそ、人間は、部分を競うことによって、自分を発見し、自分を鍛える役に立てる。それをいたわる必要は全くない。


教育というものは、先生は文字通り先達で、生徒はそれに従うものだ、というはっきりした立場がないと、成立しないのである。あらゆる芸術、学問、技術の習得はすべてそうだ。今はやりの平等、人権、民主主義などといった概念では全く解決しない。


教育は人間に対するものだ。そして人間は無限に変わる。その場その場で対処するのも、人間を生かす一つのやり方だ。
変わらない原則があるとすれば、それは永遠のかなたにある理想の部分である。耐えられる人間になること、充分に言葉の通じる人間になること、すべてにおいて自らを律する人間になること、他人の幸福と不幸を自分のことのように思えること、などだ。


国家・国旗に対する礼儀はその国の国民に対して見せられる敬愛の印である。そういう行為がどこへ行ってもすらすらと見せられるように、私たちは自国の国家と国旗に慣れしたしませることで子供を教育する。


あらゆる危険を予知できる能力こそ、生きるための基本である。


程度は別として、子供を、常に苦難に耐えるように訓練しておきなさい。


どんな子供であろうと、最終的に自分の身を守るのは、自分の体力であり知恵であることを、私は早くから教えたいと思う。


一人の人間をとりかこむ状況は、個人的にも社会的にも、不動のものであるということこそ考えられない。動き、変化するものが、生活そのものである。


私たちの多くは、幼い時、大なり小なり親に困らされたものであった。親の命令は、妥当なものも多かったが、高圧的でピントはずれで子供の希望を打ち砕くようにさえ思えるものもあった。冷静にいえば意味のあるものもあったし、ないものもあった、というあたりが真実だろう。
しかし私たちは命令に従い、納得したり不平を抱いたりし、むしろその故にこそ社会と人間の真実を見抜く眼を養った。もっと普通の言葉で言うと、困らされたから見抜けるようになったのである。


むずかしくても、どうしたら希望に近い道があるか、探す姿勢を取れるのが人間の魅力である。


魅力の背後には、必ずその人に与えられた二つとない人生の重みをしっかりと受け止めている姿勢のよさがある。


人は自己の生き方を選ぶべきなのである。そしてそれはまた一人一人に課せられた任務であり、社会を支える偉大な要素になる。


スポーツの最大の産物は、練習の鬼になり、勝って「なせばなる」などと確信することではない。練習しても練習しても、才能に限度のあることを知り、常に自分の前に強者がいて、自分に砂埃をかけていくのに耐えて、自分を見失わないことなのだろう、と思った。


世の中には誰がしなくてもすべきことがあり、誰がしても、するべきではないこともある。人並みになることを追求する、ということは個人の尊厳の放棄である。


最高の人間関係は、自分の苦しみや悲しみは、できるだけ静かに自分で耐え、何も言わない人の悲しみと苦労を無言のうちに深く察することができる人同士が付き合うことである。


自分の人生はその人自身が選ばなくてはいけない。そして選ぶ過程には、教師も親も踏み込んではならない。その人の心の聖域なんですから。


学校も職業も、何より身の丈に合ったものがいいのね。無理に背伸びすると、人にも迷惑をかけ、自分もおもしろくありません。病気や、性格の破綻、といったものは、多くの場合そういう不自然な執着を持つ時に起こります。


以上
またね***




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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...