2012年5月6日日曜日

水滸伝2(食べる読書93)




武松、試練の時。


しかし、自身の中で解決した後は大活躍です。四巻以降から乞うご期待です。


そしてついにこれまでの構想・計画を実行に移す時がきた。


ようやくスタート地点に立つところまで来たということだろう。


厳しい境遇をくぐりぬいてきた、林冲。


大きく大きく変わった。


人はいろんな出来事に直面する。だが、出来事自体はそれで終わっても我々の人生はまだまだ続くのだ。


その出来事から何を学ぶかが大事などとよく言われるが、なにを学ぶべきかがわかってればそんな出来事など出来事とすら認識しないのではないかと思う。それは風邪を引いたら体を休めるというくらいのもので、どう対処すればいいかわかっているということだし、その出来事自体の本質をすでに見抜いているということだろうからだ。


だから、人生は新しいことばかりだといえる。


しかし、そうではない。いや、そんな人生は拒否する。


本書でよく語られるのが「志」である。


まず「志」ありきなのだ。


こういう人生の指針が前提にあって初めて出来事は出来事となるのではないだろうか。


もしそうだとするのなら、奇妙な言い方だが、出来事は我々にとって新しくはあるが、それは我々に古くからあるものを再確認させる。その古くからあるものというのが「志」だ。


我々の目の前にそびえたつ出来事はそれ自体個々にとって新しい、がそれ故に(人生を今後も生きてゆかねばならないし、その出来事に直面することが人間の目的ではないために)それに対処するにはすでに個々の中にあるすべてを総動員して対処しなければならない。その個々の中にあるすべてというのはただ漠然とごちゃ混ぜになって我々を形成しているわけではない。ある概念というか価値観によって整頓されている。それが「志」だ。


つまり、出来事は半官半民のように、人に出来事と認識された時点で新しくもあるし、それと同時に古くもある。新と古の両方によって成り立っている。


出来事から学ぶというのなら、それは、古くからある「志」に照らし合わせると、この出来事に対してどう対応すればいいかということではないか。その新しい対応法を学ぶのだ。


そしてそれは、古くからある「志」の新たな表情をも見ることにもなる。


新と古が織りなすハーモニーとでも表現すればいいだろうか。それは、新が古に吸収され、それによって古は変化するがそのため次は全く別の新と必ず出会うことになる。同じ出来事(新)には出会わない。なぜなら我々自身(古)がその出来事(新)を吸収することで変化したので、同じ出来事が起きてもそれは我々の手の中に既にあるといえるからだ。


だから、新しいだけの人生というのは何も「志」を持たず、ただ目の前の出来事に反応しているだけの人生を意味している。何も創らないし、築けない。なぜなら、ただ反応しているだけからだ。


人が変わるメカニズムを出来事という切り口で考えてみたが、これが成長となるのだろうか。変化ではあることは確かだが…。


そのためには、個と集団といった視点でも考えていく必要があるように思える。


水滸伝完結BOX (集英社文庫)では出来事を通して人が変わる姿が多く描かれている。


その中で、個としては苦しいが、集団という視点により救われたり、逆もあったりする。


ま、その答えは追々見つかるだろう。


この水滸伝 2 替天の章 (集英社文庫)で武松に愛着を持ちました(^_-)-☆


以下抜粋

たやすく打ち崩せるような自分ではなかったのだ。


梁山湖の山寨を手に入れる。それは単に、場所を手に入れるだけであっていいはずはない。梁山湖に籠る賊徒の心も、また手に入れるべきなのだ。


そして雄弁家は、自らをも騙したりしてしまう。


蔡京は、軍が政争に口を挟むのを、極端に警戒していた。ひとつにまとまって力を持てば、そうなりかねない。満足はさせず、暴発するほどの不満も抱かせずという方針で、そのやり方は実に巧みだった。


死を選ぶ気はないが、死を恐れる気もない。


男は、自ら闘うことの意味さえ分かっていればいいのだ。死んで悔むのは、その意味がわかっていない時だけだ


志を見据え、見失わないようにする。自分のなすべきことは、多分それだろう。複雑なことは、呉用のように頭のいい人間が考えればいいのだ。


志、志と思いつめると、どこかで方向を間違えるかもしれないという気もする。


二人の友であるためには、盗人であってはならない。


「闘って、死ぬ。勝てぬまでも、華々しく闘って死ぬ。数年前まで、私はそう思っていた。そうやって闘うことで、この国の民の心の中に、なにかを植えつけることができると。それでいいし、それだけしかできないだろう、とも思っていた。いまは違う。私は生きたい。闘って、生きて、そして勝ちたい」


これからは、もっと人が死ぬ。そういう予感が、晁蓋にはあった。それが、自分や同志が望んでいる戦というものの、本当の一面でもあるのだ。


悲しみの涙など、生き残った者が、自らのために流すものでしかないのだろう


「宋江殿だから集まった、という人間は多い。戦の指揮は、軍人に任せておけばいいのです。その戦の意味を見失わないというのが、宋江殿のお役目でしょう」


夢が、ただの夢ではなくなりつつある。追うことができるもの。それがいま、はっきりと見えてきていた。


殺すなら、決定的なところでやらなければならない。兵のひとりひとりが、納得することが大切なのだ。


「志を全うしようとする以上、官軍との戦は避けられぬ。私はひとつだけ、ここに誓おう。志にもとる戦を、私は私自身に禁じる。それで、すべてをわかってほしい」


「戦の最後は、まともな軍なのだ。どんな戦でも、それは同じだ。致死軍は、本隊がまともに闘える場を作るだけのことだ」


ただ、志のために大事だった、という思い以上のものが、この男に対してはあった。自分が生きていることを、苦しさの中でわからせようとした男。ともに苦しもうとさえした男。
志だけが大事なのではない、と教えてくれたのも、この男だった。


作家は物語という「虚」を売る。しかしその「虚」の値打ちを高める要素の中に、作家の姿という「実」があることも確かだ。


以上
またね***



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