2012年6月6日水曜日

ニーチェの警鐘(食べる読書101-1)




これからもひとりなんだろう。


そう思う。



みんなとワイワイやるのは嫌いじゃないが、そこで話される内容や発言に嘔吐する。



そして、そんな時間を過ごした自分に対して、己自身に嘘をついてそんな場に顔を出した自分に対して吐き気を催す。



サルトルの嘔吐 新訳ではないが、まさにそんな感じだ。そこまで深くものごとを見通せてはいないが、吐き気を催すことであるということは感覚でわかる。



仲良しクラブじゃねえんだよ。なに人の顔色伺いながら発言してんだよ。



そんな弱い自分に…、最も嘔吐する。



むかしはB層だった。いまはそこから脱しつつあると感じる。というかもう脱している。



だからと言ってA層という訳でもないのがつらいとこかな…。



初めて読んだ哲学書がニーチェのこの人を見よ (岩波文庫)だった。



全く意味がわからなかった。ディオニソスってなんだ?みたいな(笑)。



それからツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)
ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)
善悪の彼岸 (岩波文庫)
と読んでいった。



論理的というより、なにかしら心に響くところがあるのがニーチェの特徴かなと思う。



ちょうど十年前のことだと思う。



そのときから時々ニーチェを読んで勇気をもらったりしていた。



はずれてもだからなんだ。本心に従うならそれが自分のやることだ。”力への意思”、”大地に根ざした生き方”など、心に残る言葉はいくつかある。



本書は現在の日本社会の現象を取り上げてニーチェの考えを紹介している。こういう視点からは見たことはなかった。というか、著者ほど勉強していないのでそんな高みからの景色を手にできなかった。そういう意味で本のすごさも感じる一冊である。



わたしにとって生きづらい現代。本物が本物としてみなされない。たったそれだけのことなのに、自分は尻込みしていると感じる。勝負するときにしていない、と…。常に前へ前へという姿勢ではなくなっている。



だから、私の闘うべき本当の相手は、この社会だと見定めた。今のこの価値観を変えてやる、と。そうでないと私は一生みじめに人生を送ることになる。自分に嘘をつかない限り。だが、それをすると、もっと悲惨なみじめさが私を襲うのだ。



「へさきの曲がった船の片隅で笑いものになっていたくはない」


これはソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)
にある言葉。


まさにこういう心境だ。



まだ拳のひとつも繰り出せていないが、すでに、ずっと前に戦いは始まり、続いている。



ニーチェは狂人になるまで真実、本質を見いだそうと格闘した。



考えることでしか成し得ない。



そんなニーチェに敬意を表しつつ、挑戦したい。



ニーチェが社会に与えた影響と歴史的に比較して、今度は私はどれだけできるのか。


to be continued・・・



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