2012年6月8日金曜日

ニーチェの警鐘(食べる読書101-2)




以下抜粋

<常識><良識><歴史感覚>それらすべてが<現代精神の趣味に反するもの><反時代的なもの>として葬られてしまった結果、社会全体がブレーキを失ってしまったのです。


大衆は近代の産物です。前近代的な階級的序列が消滅し、伝統的コミュニティが崩壊したことにより、都市部を中心に発生した層です。



理念の前に来るべき<共同体の慣習><歴史感覚>が破壊された結果、分断された個人が根無し草のように流されていくようになります。



ソフトランディングを目指すのなら<民主化>の流れを食い止める必要がありますが、近代イデオロギーは疑似宗教なので、あらかじめブレーキが失われています。社会のB層化はますます進行していいくはずです。


「私は、他人のあるとおりにありたいと思うあらゆる人を軽蔑するのだ!(中略)そうした人は、つねに他の人々のことを考えているのだが、それは、彼らの役に立つためではなくて、彼らの笑いものにならないためなのだ」



(今日の世界を支配している新しいタイプの人間)、わたしはその人間を大衆人と呼び、その主な特徴は、彼は自分自身凡庸であることを自覚しつつ、凡庸たることの権利を主張し、自分より高い次元からの示唆に耳をかすことを拒否していることである点を指摘した。



「”私が下層民であるなら、おまえもまたそうあるべきである”、こうした論理にもとづいて革命がおこなわれるのである。(中略)おのれの暮らし向きの悪さを他人のせいにしようが、おのれ自身のせいにしようが、-前者を社会主義がやり、後者をたとえばキリスト者がやるのだがーなんら本来的な区別はない。そこに見られる共通な点、品位のない点とも言ってさせつかえないが、それは、おのれが苦しんでいることの責めを誰かが負うべきであるということである」  



キリスト教の本質は反知性主義です。



キリスト教の<神>は、民主主義や平等主義といったイデオロギーに姿を変えて、世界を支配していたわけです。ニーチェは<神>の引っ越し先を暴きました。



ルソーはキリスト教と<自然権>をベースに<一般意志>をつくりあげます。
革命のイデオローグたちは、民族の歴史・民族の法を否定し、<一般意志>により「新しい権力機構」を設計すべきだと説きました。<法の支配>は伝統や慣習、先例に基づきますが、法の根拠を<一般意志>に置き換えた結果、歴史に対する責任が失われたわけです。



西洋近代の歴史は、キリスト教カルトである民主主義の暴走と、それに対して国家・社会・共同体を守ろうとした諸民族の抵抗の歴史と読み取ることもできます。そして敗戦後も、一貫して<民主教>に侵食され、病み、正気を失ってきたのが現代日本の姿です。



平等主義とは、偉大な人間を<神>の名において抑圧し、価値のない人間をもちあげるシステムです。それは現代社会を破壊するためのイデオロギーにすぎません。


やはり差別というのは大事なことだと思います。
ブロイラーのように個体差を認めないから、差別を許容できなくなる。差別をなくそうとする運動が、暴力と文明の破壊につながるというカラクリにB層は気づくことはありません。



<神の前の平等>という概念により、弱い人間の防御手段が価値の基準となり、強い人間の全傾向>が悪評をこうむったのです。



アドルフ・ヒトラー、ヨシフ・スターリン、毛沢東、ポル・ポトもそうですが、民族の歴史から切り離され、超越的な理念により支えられた政体は必然的に恐怖政治にたどり着きます。「大地から離れた人」の言うことを信じてはいけない。



国家主義はキリスト教から派生したイデオロギーです。近代的諸価値の要請により支えられた国家と、伝統的共同体の価値観は必ずしも一致しません。西洋の教養人、保守層が国家に対して警戒を怠らないのはそのためです。



今日、文明を脅かしている最大の危険はこれ、つまり生の国有化、あらゆるものに対する国家の介入、国家による社会的自発性の吸収である。すなわち、人間の運命を究極的に担い、養い、押し進めてゆくあの歴史的自発性の抹殺である。



キリスト教は、<あの世>を利用して<この世>を支配するシステムです。



「事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ」
「世界は無限に解釈可能である。あらゆる解釈が、生の徴候であるか没落の徴候であるかなのである」



「多数者の特権」に寄せる信仰と、それを利用するデマゴーグが<民主主義革命>を引き起こすのです。



「{国家制度は}すなわち、伝統への、権威への、向こう数千年間の責任への、未来にも過去にも無限にわたる世代連鎖の連帯性への意志がなければならないのである」



権利は抽象的な概念ではなく、現実世界において個々に所属するものです。



「教養とは必ずしも概念的な教養のことではなくて、なかんずく、直感し正しく選択する教養のことである。それは、音楽家が暗がりの中で正しく演奏するようなものだ」


偉大な先人と交わりたいという欲求こそ、高度な素質のある証拠なのだ。モリエールやシェークスピアに学ぶのもいい。でもなによりもまず、古代ギリシャ人に学ぶべきだ。



B層は古典に触れないので、歴史感覚が歪んでいます。
健全な芸術に触れないので、美的感覚が歪んでいます。



イギリスの作家ギルバート・キース・チェスタートンは、「狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」と喝破しましたが、オウム真理教や左翼過激派でさえ、ここまであからさまなテロのロジックを表に出しません。


B層は単なるバカではありません。
むしろ新聞を丹念に読み、テレビニュースを見て、自分は合理的で理性的な判断を下していると信じています。そして、騙されても決して反省せず、自己正当化の挙げ句、永遠に騙されていくのです。小泉郵政選挙に騙され、、民主党マニフェスト詐欺に騙され、この先も「改革」「革命」「維新」を声高に唱えるようなB層政党やB層政治家に死ぬまで騙され続けるのでしょう。



日本は先進国では異常なほど人口比の公務員数が少なく、GDP(国内総生産)に対する公務員の人件費比率はフランスの半分以下です。



既存の統治機構に対する不信感、世界恐慌が重なる中、社会的弱者に対する共感の政治を唱えて福祉政党のナチスは拡大しました。わが国においても、震災対策において弱者救済を口実に超法規的措置を持ち出すような政党がありますが、彼らはロベスピエールやヒトラーの同類であり、法を無視する職業的詐欺集団と言っていいでしょう。



選挙のたびに「有権者の成熟が必要だ」などと言われますが、歴史上、有権者が成熟したためしはない。


民主主義者、平等主義者が学歴社会を批判するのは、学歴社会が健全だからです。



これは大事なことですが、知性や学問を否定してもいいことなんてありません。
民主主義を徹底させると、議会制度は廃止され、無作為抽出で「政治家」は選出されるようになります。大衆が当番でボタンを五つくらい押すようなものになります。



「女というものは、女らしい女であればあるほど、そもそも権利などというものに手足をばたつかせて極力抵抗するものだから。(中略)”女性解放”-これはできそこないの女、つまり子供を産む力がなくなってしまった女ができの良い女に対して抱く本能的憎悪である」



三権分立は、<民意>を背景にした議会の暴走、および権力者による恣意的な方の解釈を防ぐために整えられてきた制度です。



アレントは「ナショナリズムは帝国主義の阻害原因になる」と述べます。なぜなら、領土や人民に基盤を置く国家の原理と帝国主義の本質である資本の原理は激しく対立するからです。そもそも国家は古代ローマ帝国のような普遍的な統合原理をもたない。


要するに選挙は<デモクラシー教><民主教>の儀式です。厳密に言えば、選挙は民主主義的ではありませんが、先述したように議会は民主主義の呪いを背負っています。


「民主政治は、偉大な人間たちや精鋭の社会によせる不信仰を代表する」


ニーチェは「ひとりで生きる人たち」「これまで聞いたことのないことに対して聞く耳を持つ人たち」のために語りかけます。



以上
またね***



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