2012年6月26日火曜日

情報の歴史を読む(食べる読書103-1)




以下抜粋


天平時代の752年に東大寺で、大仏開眼という巨大なナショナル・イベントがおこなわれたことがありましたが、あれは「東大寺を中心とした全国ネットワーク・システムが開通した」というお披露目だったわけです。


歴史が編集だというのは、歴史の出来事には、どこかに必ず情報を構成しなおそうとするしくみがあるということを意味します。


その民族がかかえてきた情報文化は物語という様式そのものに凝縮して編集されているということになりますし、もっというなら、その物語を編集してきた編集の方法にこそ、つまり、そのプログラミングの方法にこそ、民族の記憶や文化の様式が宿っているとみなしてもいいわけです。



編集の真骨頂は「関係の発見」にある。一見、ばらばらに見えている事柄や現象が、実はどこかで関係しあっているのだということに注目し、それを構成することです。その関係線を発見し、その意味をさぐることです。歴史はそのような編集の成果でしあがった複雑きわまりないエディトリアル・オーケストレーションなんですね。



「情報というものは必ず遅れてやってくる」ということなんです。


「どんな情報も、そのメッセージを送る発信源のすべてをつきとめることはできない」ということです。



われわれは、もともとが複数の情報生命複合体なんです。意識というのは、そのような情報生命複合体の中から突起してきた文法的な主語のようなものなんです。


でたらめだということは、いいなおせば「区別のない世界」です。したがって、そこには情報もない。情報は区別を本質としていますからね。


無秩序から秩序をつくりだすこと、これが生命活動の特徴です。そして、そのような秩序をつくることが情報の本質的な動向だということになります。



人間はそれ(情報をたくさんの外部記号におきかえられるようにした)に加えて、外の世界に自分の情報活動の記号をつくり、これを扱えるようにした。そこが特徴です。つまり、言葉や道具などのコミュニケーション・ツールをつくったということです。


情報にとって分節が大事だということは、情報には文脈があるということで、情報に文脈があるということは「情報文化は区切りでできている」ということです。つまり、この文章はどこで分節をするか、アーティキュレートするかということが、人類の情報文化をつくってきた。


情報文化に接するときは、いつも全体に接しつつ、その部分をどういうふうに切って組みあわせているか、これに着目しなければいけません。



結局、人間の社会的な情報活動のスタートは、自分の属するエリアと他人の属するエリアというものを分けるか分けないかということをめぐって、さまざまなコミュニケーションをしてきたことにはじまったといえます。


われわれの情報文化史は、最初期の直立二足歩行の段階で、すでに根本的な制約をうけ、その制約ゆえにさまざまな情報編集的なスタートをきったということです。



コレクティブ・ブレインとは「集合脳」というような意味ですが、かんたんにいえば一族全体がひとつの考え方をもっていたということで、ばあいによっては、一族全体がひとつの表現技術に徹していたりもします。


線の発見はリズムの発見であり、輪郭の発見はデザインの発見だったわけです。


農耕とは、情報文化史的には人工的な生産空間開発の開始を意味します。ヒプシサーマル(気温の上昇)の進行で、それまで自生していた小麦がとれなくなると、「あの小麦よ、もう一度」というわけで、農耕がはじまるわけです。そこにはヒプシサーマル以前の”小麦による生活”という情報文化モデルが生きていたということなんです。



文字は情報が大量に流れるところに成立するからです。大集落はモノの集散と加工でささえられる。それにはその集散と加工の技術を管理するマネジメントが必要です。漠然と情報をつかまえていたのでは、たちまち崩壊をおこしてしまう。何が入ってきて、何が変化し、何が流出したかを記録する必要がある。勘定をする必要がある。また、担当名簿もつくる必要が出てきた。それが文字の出現をもたらすのです。そして、そこに「くりかえしあらわれる文字」と「修正不可能な文字」という性格が確立されると、その記録力が情報文化の基底をささえていくことになるのです。



文明というのは「都市と市場をもった広域情報システム」というふうに見るとよいとおもいます。これにたいして、文化というのは「多様性を克服した情報モード」とでもいうものです。


「われわれにはあずかり知らぬ情報も流れこむ」


観念技術が発展して、それらが言語システムや文字システムとなり、コミュニケーション・ツールが発達して、感染の技術というものが生まれてくると、そのようなものを駆使した、もっと強大なシステムが出てきます。さまざまに飛び散っていた民族的な情報文化を統合し、再構成するような情報システムです。



「聖なる場所」が国家の中心的なホストマシンと重なるには、都市における聖堂や神殿の建立を絶対に必要とします。そしてここにこそ、宗教と国家の起源が同一視される歴史的根拠が出現するのです。それは、古代宗教というものが文明の起動装置であり、情報管理システムであったことを意味します。


マツリゴトというものが宗教と国家の起源を一致させるためのしくみであって、そのためには”マツリゴト・ホストマシン”のエンジンにあたる強力な神々がつねに”用意”されていたということが、はっきりしてきたとおもいます。古代宗教国家が周辺民族を制圧し、かれらを服属させるときには、必ず自分たちの神々を認めさせ、その神々にたいして情報的な服属契約を結ばせるという方法がとられたわけでした。


古エジプトの情報文化システムは、生と死の二つの王国にまたがっていたわけですね。ホストマシンのエンジン自体の中に生と死が入っていたんです。


ギリシア神話もギリシア神殿も、もともとの原型は大母神がリードしていて、それがいつのまにか男性神のゼウス型の物語構造に組み替えられていったということです。つまり改竄されたということである。そこに母系制から父系制への社会の転換があったともいえるし、編集技術の転換があったともいえます。


では、なぜ、ゼウスはたくさんの女性と交わったのか。「母なる神」の物語を換骨奪胎した新しいギリシア型のゼウスの物語構造では、多くの「母なる神」の末裔たちを犯しておく必要があったからです。こうしてゼウスから生まれた神々こそが”純正国産もの”として、新たなギリシア神殿に入ることになっていく。それとともに、古い大母神を中心とした社会システムから、男性神中心の社会システムへの切り替えに成功していった。これがオリンポスの神話の実態です。


デモクラティア(デモクラシー)というのはもともと財産評価政策のことですからね。



預言者が出てきたというのは、その預言者が生きていた時代の社会が低迷していたということにほかなりません。預言というのは、社会を改革するための政策を予言の形式で提案するということなんです。ですから、「枢軸の時代」とはいえ、その社会状況は必ずしも高揚しているとはかぎらない。


たしかに古代ギリシアにはすばらしい美術も思想も科学もあるのですが、そのよさは、それぞれの建築家や思索者や科学者が、「おもいつめる」といことに徹したからなのであって、その思索によって社会のモデルがつくられたからではないからです。



ブッダを彫像であらわすことをしなかった仏教徒が、アレクサンドロスの軍隊が運んできたギリシア彫刻に目をみはり、ブッダの彫像化を試み、そこにガンダーラ様式が誕生したという、これは誰もが知っている話です。



対話による思索の進行というのは、たいへんすばらしい方法だとおもいます。なぜなら、そこには「編集的現在」という視点が生きてくるからです。二人が思索の現在をつねにとらえて、そこに出入りする情報を次々に交わしあうことは、「おもい」がどのように変化するかというプロセスを見るには、もってこいなのです。


外来者が内部の本質を見抜いてしまうという例でした。情報文化史では、どうもこういう例が少なくありません。


タイプフェイスと文化の関係は言及されてこなかった。けれども、どの内容をどの書体で綴っておくかということは、情報文化にとってはかなり大きなことである。


インド哲学は、このブラフマンとアートマンを合体させることが目標になっている。これをよく「梵我一如」といいます。宇宙原理と個性原理の統一ということですね。



業(カルマ)というのは、人間の行為には潜在力がひそんでいて、どんな行為にもその潜在力がのちのちまで影響力をあたえるというものです。


中国では、いつの時代も「仏先道後」とか「道先仏後」とかいったプライオリティを議論する批評がかまびすしく唱えられているのです。日本ではどちらかというと、こういうときは「和光同塵」とか「和魂漢才」とかいって、一緒にしてしまったり、バランスをとったりしてしまうことが多いんですね。中国では、そこは必ず決着をつける。



「華厳経」は唯心縁起を重視する世界観によってできあがったもので、言葉づかいがたいへんに述語的につながっているという特徴があります。なぜならば、華厳は「生起」というはたらきに注目していて、さまざまな現象が互いにめくり上がり、相互につながっていくというワールドモデルをつくっているからです。それを言葉でも自在に表現してみせている。



to be continued・・・



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