2012年6月3日日曜日

近代科学再考(食べる読書99-2)




本書は60年代、70年代に書かれた著者の文章である。一部未発表の文章もある。


高度経済成長真っ只中でこれほど俯瞰的かつ本質的に科学を観ていた人がいたということに世間の広さを感じる。


しかし、これが主導権を握れなかったということも物事の真理をついている。


著者はただ単に警告するだけだからである。


こういった科学の体制化による人間の抑圧の流れに一石を投じるその”一石”を持ち合わせてはいなかった。


”われわれが追及すべきは、こんにちの科学の前線配置を変え、その野放図な、反人間的な発展をおさえることでなければならない。そのためには、科学の体制的構造を変えること、そこへ至る道として、科学のコントロールの主導権を資本や国家からわれわれの手にとりもどす努力が必要である。”


”科学の革新は、「それまでに存在しなかった問題を、問題として意識するような視座の獲得とともに」はじまるのだ。”


などと本書でのべているが、それだけである。



その”一石”を創り出すことがどういうことかについては語られない。


いまの社会は著者の指摘通り、科学が組み込まれた体制になっており、その体制が確固としたものになればなるほど、我々人間は身動きが取れなくなっている。それは、人間は単に体制をもって扱えるほど単純ではないということと、発展していく科学とそれに呼応するように変わっていく社会に対して支配する術を持ち合わせていないということが理由としていえると考える。


このことは考えてみれば当たり前なのかもしれない。これまでの人間の叡智の結晶として今日の科学があるわけで、それを工業的に活用し、社会生活へ還元するという知恵も(人間のなしうる知恵の)最高の部類に入るだろう。


つまり、これら最高のものを産み出すことで、もうすでに全力を出し尽くしているのだ。疲弊しきっているとまではいかないが、それらを何のためにどう活用するといった発想をするエネルギーはないように感じる。


「おっ!!!これってあれに使えるんじゃないか!」とか「なんだこれ!?今までになかった反応じゃないか」といったいま目の前にあることに全力を尽くしている。この積み重ねで科学は発展してきたし、こういう経験を持続的かつ多く起こすよう社会に体制として組み込んできた。


この流れは確かに妥当だとは思う。ただし、もし私がこの社会のトップだったらだ。体制化とは、ある情報を一か所に集めることができるという側面をもつ。そこからいろいろ体制を改善していく。体制維持のために。または更なる発展のために。



つまり、この体制化された科学と社会は一つの”思想”を体現化しているといえるのではないか。


昆虫は我々人間とは異なる波長の光を感知するという。それは昆虫の社会がそれらの能力によりなされており、その根幹をなす(昆虫の)社会と能力との関係を全体として捉える”思想”のようなものも独特のものがあるからだと考える。


昆虫は昆虫の、ウイルスはウイルスの、植物は植物の、それぞれがそれぞれたりうる”思想”のようなものがあるとは言えないか。



逆にいえば、昆虫が存在するその”場”事態が昆虫の一部ととらえる。禅門答みたいだが、そうとらえるとどうだろうか。


いまの科学と社会とのあり方、科学変調的な流れとなったのも人間の人間たるゆえんであるといえるのではないか。つまり、現在の科学と社会の在り方は妥当ということだ。なぜなら、それに深くかかわっており、それらを創り出したわれわれが人間だからだ。いまの状況を創り出したのも人間の一部。


そして、いまの状況に疑問を呈するなら、ここからどこへどう変わるのが人間たらしめるのかと考えるのが妥当だ。


地球の歴史、宇宙の歴史、そのほんのごくごく小さな小さな存在であった人間がこの先どう生きていくのが、この膨大な歴史の流れにあって最も人間らしいのか。


こういう視点で現代と次の時代を見るとどうだろうか。


私自身も著者と同様”一石”を今は持ち合わせてはいない。よって、この先の結論も持ち合わせてはいない。


しかし、近い将来必ずこの”一石”を創り出します。


あとはこれをどう使うかなんだよなあ…。無いものの使い道を考えてみてもどうしようもないか。


以上
またね***



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