2012年6月29日金曜日

情報の歴史を読む(食べる読書103-2)




引き続き抜粋


古代中世では文字ですら人間の身体に共鳴した状態で読んでいたということです。どんな文字であれ、必ず音をたてて読まれていたからです。ですから、声の情報文化の時代というのは「共鳴型の情報文化」だったといえるのではないか。
これにくらべて近代の「目の文化」としてのリテラシーは、それを別々の機会に確認しなければいけないのですから、「追認型」というべきです。


エディット(編集)は、情報に関係を発見し、文脈、時間、律動によって、情報を統合し創造にいたる方法。コンパイル(編纂)は、情報の種類を限定して収集、分類し、階層的に構成したり、系統的に整える方法。組織は編纂的につくられてきたが、最近では、組織編集がもとめられてきている。


巡礼は情報ネットワークの拡大であるとともに、一方では経済ネットワークの発展にもつながります。


イスラム型のアリストテレスとはちがうアリストテレス解釈を新しく導きだす必要があったわけで、そこで、のちに”スコラ論議”と揶揄されるような、徹底した解釈議論がつづくことになるんです。



そこには情報文化の風土的社会的な”時熱”というものがあり、各地にそのように熟成が進めば、時同じくして似たような現象が出てくるのはあたりまえなのだ、とおもう見方が必要です。


この一連の動向には、それまで隠されていた貴族や豪商たちの欲望というものは、それにうまく鏡をあわせるシステムさえあれば、それまで人類が知らなかったとんでもない可能性と危険性が引き出せるのだということを知らせます。それは何かというと、それが資本主義というものでした。


二人(デフォーとスウィフト)はともに奇想天外なフィクションをたてつづけに発表したのですが、それは誰もがすぐに現実社会のおかしさをおもいつける”文字の劇場”の中の出来事を描いたものでした。しかし、それだけに、スティールやアディソンの思想の自由貿易よりも、ずっと影響力をもった。



情報文化史としての十八世紀が興味つきないのは、この世紀は「テイスト」が全面に躍り出て、陶磁器とかパステル画とかジャーナルとか、クラブとか園芸書とか活字見本帖とかが、大きな情報力をもってくるということなんです。思想や言語はその上にのっかっているだけという感じです。


歴史とはそもそもが「関係の発見」の連続であり、そこに情報文化の編集のウェブ(網目模様)が読みとれるわけです。


中世の共同体は声がとどく範囲でひとつの単位をつくっていたことに注目しておくといいとおもいます。だから町や村の行政単位もその半径にもとづいていたのです。


「活版印刷によって聞く文化は失われ、見る文化が強化された」、および「活版印刷は各地に母国語の確立をもたらした」ということです。


奴隷貿易と機械労働の出現もけっこう重要です。これによって分業システムが進行するのですが、それとともに知識情報と技術情報も分業されてしまうからですね。そのため、これらの知識情報と技術情報を管理する親方制度やギルド制度や、日本でいえば座のシステムなどが発達します。



情報格差に象徴される跛行的社会の矛盾を解消しようという動きが初めて出てくる。なぜなら、当時の人々にとっては、格差は医療や児童労働や婦人教育としてみえやすいかたちをともなっていたからです。これが公衆衛生や労働時間の改良などに発展し、やがてはシャルル・フーリエやサン・シモンらの空想的社会主義にまで昇華していきます。



商品による世界再生は、都市を商品の見物と流通の場に変化させる。物の流れ、情報の流れ、人の流れ、金銭の流れが、都市の重要な条件となってきた。


われわれの身体に従属していたはずの娯楽分野に電気的な情報技術が介入してきたということは、かつての活字や図版やピアノやカストラートがもたらしてきた感動に、新たな変更を迫るものとなったわけでした。そのためか、二十世紀の初頭を飾るジョイスやプルーストやジッドの文学は、逆に、そのような情報技術からまったく遠い意識の内部の出来事を描き、情報文化そのものに背をむけようとしたのです。


歴史というものは、おおむね強者による普遍主義の独占をめぐって歯車をまわしてきました。情報も強者によって独占されてきた。しかし、むしろ「弱者を聞く時代」のほうに注目するべきじゃないかとおもうのです。


情報文化を解読するには、通時的でいて、かつ共時的な”歴史の眼”が必要になるのである。



そもそも古代インドには「なる」という動詞がなく、仮に「なる」を表現するばあいでも「ある」の一側面にしてしまう。したがって、インドの情報文化は「出現」と「持続」と「消滅」の三つのフェーズを基礎に成り立っていくということになる。


ペルシア語・アラビア語・サンスクリット語のいずれにも「主観」にあたる言葉がなく、そのため、これらの民族言語をつかう思想では、内部と外部を分けたり、宗教と哲学を分けたり、また科学的分析性と主観的思索性を分けるといった思考は通用しないのだという。では、これらの民族言語のよる情報文化はどのような基礎をもっているかというと、シャエガンによれば、「普遍的なるもの」と「個別的なるもの」を分けることで成り立っていく。



電子情報文化の特質はデジタル化とネットワーク化という点にある。けれども、それだけでは何もおこらない。われわれがこれまで経験してきた情報文化が次々にデジタル化され、そのコンテンツがネットワーク化されていくにしたがって、そのプロセスに独自の情報文化編集が加わらないかぎり、電子ネットワーク社会なんて、ただの”便利な社会”にすぎないのである。私は、明日の情報文化をおもしろくするには、電子ネットワークの中に編集技術が開花する必要があると思っている。情報文化史が編集技術の歴史でもあることは、本書を通読してもらえば納得されるにちがいない。


to be continued・・・



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