2012年6月30日土曜日

水滸伝六(食べる読書104)





楊志に続いて官軍からの有力人材を獲得。


ついに秦明が梁山泊入りである。


楊志やほかの男たちのようになにかしら個々人の事情と深く関わっての入山ではなかった。意外とあっさりしていた。


そのときの魯達のやり方がスマートだなあと感じた。こういうやり方は好きです。


そして旅の中の宋江がまたしても危機に直面している。


それでも動じないのが宋江ではあるが…、その分武松らがたいへんだなあとも感じた。


これらの流れから闘いは次のステージへと移っていく。そして、それはこれまでの巻が扱っていたテーマとは異なる内容に関する記述が多くなるということ。


この水滸伝ではひとつの組織として成り立たせるため人をどう扱うかという俯瞰した視点を得られると感じながら読んでいたが、それと同時に時や状況の変化によって組織自体の変貌も時間軸から俯瞰して見れるのが勉強になる。


組織の変貌とそのコントロールかな。


これをどう導くか。


これまでにない相手に処するため自らをどう変えられるか。


ビジネス・経営にも通じる問題ではないかと感じる。


総合的な学びが小説からは得られるなあと思ったりする次第です。


以下抜粋


人を殺したということについて、自分が正しいと思いこもうとしている。人殺しにはよくあることだった。自分だけの理由。それが、いまの世で人殺しの数を増やしていると言ってもいい。


「ただの盗っ人の人殺しと言われた時、肚の底にしまいこんでいたものを、いきなり引き出されて、陽の光に晒されたような気分になりました。だから、腹が立ったのだと思います。これまでにないほど、腹が立って、自分で抑えることができませんでした」


「なに、命というのは、投げ出してみれば、なんとかなる。死ぬ時は死ねばいい。生きたいという思いは、捨てられることがあるのだ。いまの俺は、そうだ」


民のために権力と闘う志、というのがただのきれい事だと思えてきた。穢れのないことをやり続けてきた、という思いが、消えていたのだった。
どういう志であろうと、権力を倒し、新しい権力を作りあげよう、という目的があることは否めない。つまり、権力と権力の争いになっていく、と思っていいのだ。そこでは、きれい事は言っていられない。騙し合いも、裏切りもある。林冲や、死んだ楊志のような純粋な軍人気質は、ただ果敢に闘えばいい。しかし、宋江や晁蓋や盧俊義は、権力の争いであるという本質に、とうに気づいているだろう。


「死にたい時に、死ねる。それは選ばれた人間だけが持つ特権と言ってもいいな。おまえや私のような愚か者は、死にたい時に死ぬことは許されん。なあ、馬麟。人は、息をしなければ死ぬのだ。死にたいなら、息を止めていればいいだろう。それで死ねないなら、死ぬことが許されていないのだ」


宋江は意味を考える人間であり、そこからどう闘うべきかも決める人間だった。自分はただ、闘うための人間だ。だから、こんなことを考えてしまう方が、おかしいのかもしれない。それでも双頭山の兵たちはみんな、宋江や晁蓋ではなく、自分や雷横を見ているのだ。


「人はいくつになっても、学ぶものです。人の世で生きるのに、孤高などとは馬鹿げたことなのだとも、史進が教えてくれました」


「俺との稽古は、躰にはつらかろう。しかし、心にはつらくない。なんとなく、俺にはそれがわかった。だから、容赦せずに打った」


「考えの対立は、あって当たり前。将軍が、軍人という殻に逃げこんで、人間として語ろうとされない時です」


「私は、将軍と話をしたかっただけです。充分に、聞いていただきました。軽い誘いの言葉に乗る人物を、梁山泊は求めてはおりません。あとは、将軍がお考えになり、決められることです」


「梁山泊は、ひとつ梁山泊のみではない。各地に散在する山寨でもない。人の心から心に移る、魔もののようなものが、梁山泊だ。これは、こわい。官軍の、名だたる将軍の心にまで移った。これからさらに、官軍の兵に、民に、移っていくことを防がねばならん」


「蔡京がなにか言ったとして、民はそれを聞くか。またか、と思うだけだろう。二、三の施策で、民の心は動かせまい。私が求めているのは、すぐにできることだ。二年、三年の計については、誰にでも言える」


「そうか。こちらが癖だと決めつけているものにも、大抵は原因があるということか」


「ここに入山する者に、死ぬ覚悟をしろと言ってきた。死んだやつらは、黙って、名もなく消えたんだ」


李富に、人間的なところがあるのはいい。しかし、それを弱さにしてはいかん。


「悪い者だらけだ、この国は。これはと思う者など、ひとりもおらん。それでも、国というものは成り立つ。民が、働くからだ。国の力は、民の働きがすべてなのだ」

「しかし、民は富ませ過ぎてはならん。必ず、富はどこかへ片寄る。富を得られなかった者の心に、不満がくすぶる。それが、叛乱の芽になっていく。民は草だ。木になってはならん。灰でもいいし、地衣でもいい。たとえすべての地を覆ったとしても、決して上にのびてはならんのだ」


大抵の場合、権力を否定する叛乱側のほうに、大義はありそうに見えるものだ。


気は、自分で蘇らせるものであろう


「男は、自分で自分を鍛えるものだ。楊令にその気があれば、教えなくともすべてから学べる。林冲は躰の痛みを教えたが、私は別のものを教えようとしている」


「なにか、暖かいものがそばにある。それで、楊令の受けた傷は、いくらか癒されるかもしれん。時はかかるであろうが」


「哀しみを知っているということは、喜びを知っていることでもあります」


想定は、ひとつだけでいいのだ、阮小五。戦は生きものだ。あらかじめの想定は、ひとつ。


「のちに、死で償う。たとえ勝ってもだ。戦に前提を立てるということは、それほど危険なのだ。本来、戦に前提を立てるのは、邪道だな」


戦で勝つのと負けるのでは、大きな差がある。大きすぎる差だ。しかし大将の資質を較べれば、小さな差しかない。ほとんど紙一重と言ってよいであろう。あるいは差がなく、運のあるなしが勝敗を左右する。だから、資質で勝つ、資質で負けるということは、あまり考えない方がいい。ただ、人の力でなし得ることはあるぞ


「堅陣を敷いた。敵の大将には、そう思わせる。だから、布陣に充分な時を与える。自信があればあるだけ、自分の陣形にこだわり、退くのが遅れる」


「夜襲の発見は早くできても、一千に攻められたら、支えきれまい」


今夜、と王定六は決めた。疲れは限界に達していたが、決めることにためらいはなかった。決めたら、すぐにやる。あれこれ考えたりはしない。考えれば、脱獄などできるはずはない、と思ってしまうに決まっていた。


「こんなところで、死ぬ気になってなんになる。心根は腐っていないが、愚かではあるようだな。とにかく、私に付いてくるか、ここで死ぬか決めろ」


この世を少しはましにするために、人生をかけて闘おうと思っている。


肚は据わっていた。自分を守る者たちを信じ、決して疑わない。もし命を落とすようなことになれば、そこまでだと達観してもいる。この国を変えたいと志したところで、その姿を知りもしないでなにができるのか、という強い信念はいつも感じられた。


じっとしていることが正しいのかどうか、武松は考えるのをやめにした。すでにはじめている。死ぬ時が来れば死ぬが、それは宋江を守り抜くためである。自分が生きているということに、武松はわずかだが意味を見つけ出しつつあった。


たとえ宋江を捕えて殺したところで、また別の宋江が現われる。民の間に、叛乱の芽がある間は、必ずそうなるだろう。それよりも、こちらが変わってしまう方が先だ。


以上
またね***



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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...