2017年10月23日月曜日

「棲み分け」の世界史(食べる読書131-2)



本のタイトルにあるように「棲み分け」という切り口で世界史、特に欧米の特徴を述べている。
別の言い方をすると、分離の対象領域の変遷であると思う。


「自制的・生態学的な富の棲み分け」→支配被支配からの分離
「能動的棲み分け」→空間、時間そして、人間の分離


分離することがどうして欧米の覇権へとつながったのか。
条件の一つとして、欧米以外で分離が進んでいないことがあげられる。
当たり前のことだが、他がしていないことをしたからである。そしてそれを、世界標準にしたからである。


そして、逆説的だが、分けることで世界を一つにできたのだ。


分離対象ではなく、分離基準で世界を支配しているのだ。


分離の特徴の一つが、分離対象の運営のしやすさにあるのではないかと思う。分離の基準や根拠を基に運営すればいいからである。運営における判断基準が明確である。
だが、それは数字上だけのことである。
大事なことは、概念的に分離はしたが、現実にも分離されているのか?ということである。


本書では、棲み分けの結果としてナショナリズムが生まれたことを示している。

例えば次の内容、「フランスには、標準語とされるフランス語の他に、西端ではケルト系のブルトン語、南フランスではプロヴァンス語などロマンス語系のオック諸語、スペイン国境では、なんと非インド=ヨーロッパ語であるバスク語とロマンス語系カタロニア(カタルーニャ)語、ベルギー国境ではドイツ語系フラマン語、ドイツ国境のアルザス・ロレーヌ地方でもドイツ語系が使用されている。・・・だからこそ、こうした地域において標準フランス語、標準ドイツ語、標準英語が強制的に教育されていった。フランス革命では外国語はもとより標準語以外の方言もすべて使用禁止とされた。ここに国語(標準語)が成立したのである。そして、国語の普及には初等教育制度による識字率の向上が不可欠となった。同一規格の教科書を使った国語教育、さらに音楽教育(日本でいえば文部省唱歌のようなもの)によって正書法も発音も同時に均一化され、無味乾燥な国語が人工的に創られていった。」

生活に根差していないナショナリズムの台頭は、そのままバーチャル生活への入り口ではないか。
言語の発生と言語の役割などについての理解はほとんどないが、少なくとも各地域の言語はその地域生活と密接な関係があるはずだ。
生活に根差した言語を取り上げられ、運営上の理由による与えられた言語で生活することは、「お前はもう死んでいる」状態ではないのか。


分離によりバーチャルな生活を余儀なくされているのが現代である。


だが、”分離”そのものが悪いのではない。目的達成のために目的に合わせて分離することは大切である。
しかし、その目的を決めるのは各人である。
人間は、分離対象ではなく分離する側であるべきだ。


さらに、分離基準が歴史も文化も異なる欧米が決めたとなると、ほかの地域(アフリカ、アジアなど)の生活はどうなるのか。
その結果は、グローバル化の状況がそのまま答えになるのだろう。


本来「棲み分け」されていないのに、「棲み分け」することによって資本主義・サイエンスが発達し現在にいたっている。
「棲み分け」る、分離する基準が自由に決められるなら、人類がさらによりよくなるためにはどんな「分離基準」が必要であろうか。
もしくは、分離そのものから脱却しないといけないのか。
これまで分離してきたものを統合するような分離基準はあるのだろうか。


こう考えると上記の問いの答えが見えてくる。
「概念的に分離はしたが、現実にも分離されているのか?」
現実は、なにも分離はされていない。しかし、生活すること自体それに合った分離が必要である。
酸素を吸って二酸化炭素を吐くように、人間が生存するにも多様な化学物質などを振り分けて生存している。これは生活にもいえる。
人間の生体かつ生態に則した分離基準を基に生活を設計すればいいのだ。
分離基準は己自身ともいえる。


自分で決めた分離、「自発能動的棲み分け」を行う必要がある。それが社会的棲み分けとどう折り合いをつけるかは、その目的次第なのだろう。


「棲み分け」はあくまで手段である。


人類のためになる目的を定め、「自発能動的棲み分け」により新たな価値を提供したい。


以上
またね***


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