2017年10月28日土曜日

世界を不幸にしたグローバリズムの正体(食べる読書132-2)




グローバリズム自体は多くの恩恵を世界にもたらしたが、負の側面ももたらした。その負の側面は、ガバメントの問題であると著者は述べている。

世界銀行、IMFで勤務した経験からその内情も含めての結論である。


しかし、本当にガバメントの問題なのか。


グローバリズムを上手に運営するとはどういうことで、どういう結果をもたらすのか。


経済の様々な分野に影響を及ぼすグローバリズムは、単一価値の輸出ではないか。
単一価値とは、人々の生活を測る指標としての経済理論・経済学だろう。


そして、それらの経済理論は欧米で生まれたもので、欧米以外のアジアやアフリカ、イスラム諸国においてそのままで適用できないのは明白だったのではないか。
他地域においても適用可能であることを確かめたのだろうか。そもそも確かめることは可能なのか。


中国やポーランドを例に、その国に合わせた経済政策をとることが成功への条件であると述べている。
しかし、国際機関のIMFはそれをしなかったのが問題であり、それをガバメントの問題としている。


私は、このグローバリズムによって人類は、「普遍」への再考を迫られていると考える。


2点あると思う。


・普遍とは、状態ではないのではないか。
・人類が普遍性を手にすることはできないのではないか。

(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
普遍:多くの、あるいは、ある範囲のすべての個別例に当てはまる共通な事柄をいい、「一般者」ともいわれる。特殊、個別に対する。人間の合理的思考はすべてことばを伴い、ことばを通じてなされる。ことばはすべて多くの事物に当てはまる共通な事柄をいうものであり、そこにことばの意味機能がある。たとえば、「三角形」という名称は正三角形、二等辺三角形、不等辺三角形というすべての特殊な三角形、また、その個別例に当てはまる共通な同一の事柄を意味する。このように多くの事物をある観点から総括し、一つのものとして把握する働きが思考の働きであり、そこに把握される「一つのもの」(多を通ずる1)が普遍である。感覚される個別の存在に対して、思考の対象である普遍が実在界においてもつ存在が何であるかは、哲学史上、古来盛んに論じられてきた問題である。[加藤信朗])


普遍とは、ある状況や状態の共通事項・性質を指していると考えられる。しかし、現実は諸行無常であり、われわれが共通項を見出だす対象自体も変化していく。よって、ある時代においての普遍が時を経ると普遍性を失うこともあるだろう。


と、考えると、共通項そのものよりも共通項の変遷、それを変化させる何かしら(変化を生み出す源、変化の仕組みなどそれが何かはわからないが)が普遍ではないか。
つまり、言葉では表せられない。事象によりその変化の源は変わるであろうからである。諸行無常=普遍、としてもいいがそれも単に諸行無常という現実の一側面=ある意味状態を示しているに過ぎない。そして、諸行無常は結果の記述であり結果を生み出すものではない。
同じ結果を生み出す”何か”、それが普遍ではないか。そして、諸行無常の現実において同じ結果を生み出す”何か”が同じ共通項であるとは考えにくいのである。


そして、そこに人間がいるのである。人間が、もし普遍を見出だしたらどうなるか。それが、グローバリズムに関する一連の結果である。つまり、普遍を武器に自身の優位性を高めるのである。普遍は人間の目的達成の道具に堕する。IMFがしたように、だ。普遍は、われわれが従わざるを得ないものではなく、われわれが使いこなすものでもあるという側面も持つ。普遍が、非現実的であればあるほど、現実よりより良いものに見えれば見えるほど、それは輝きを増し人々を魅了する。だが、その時点で普遍は普遍ではないのである。もし、そこに普遍を見出だすとしたなら、人間の共同幻想の性質であろう。


これらを解決するには、現実をわれわれ自身の変化も込みで把握しうる、情報処理概念だと考える。入力、加工、出力の各過程においてこれまでとは異なった概念のもと情報を処理することが求められている。この情報処理が、普遍であるというつもりはないが、見えてくるものはあるのではないか。
帰納法、演繹法とは異なる、何か。


その発見、創造に貢献したい。


以上
またね***

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