2017年10月24日火曜日

世界を不幸にしたグローバリズムの正体(食べる読書132-1)




以下抜粋

決定はイデオロギーと誤った経済学の奇妙な融合に基づいて下され、ときにドグマが特定の人びとの利益を厚くおおい隠しているように見受けられた。危機が起こると、IMF(国際通貨基金)は時代遅れで不適切な解決策を採用した。それは「標準的」な政策なのかもしれないが、その政策に従わされる国民にどんな影響が及ぶ科は、まるで考慮されていなかった。その政策が貧困にどんな寄与をするかという予測はほとんど見たことがなく、別の政策をとったらどうなるかが真剣に検討されるのを見たこともほとんどない。あるのは唯一の処方のみ。代替策は考えもされない。オープンでフランクな討議が行われる余地は最初からない。イデオロギーのみが政策を決め、各国はIMFのガイドラインに無条件でしたがうものと思われている。


私たちはグローバルナコミュニティを形成しており、あらゆるコミュニティがそうであるように、なんらかのルールに従わなければ共生していくことはできない。そのルールは誰から見ても公正なものでなければならず、権力者と同じく貧者に対しても当然の配慮をした、基本的良識と社会正義を反映するものでなければならない。今日の世界では、それらのルールは民主的なプロセスを通じて形成されなければならない。いかなる政体もどんな権威もしたがわなければならないそのルールは、遠い場所で決められた政策や決定に影響をこうむるすべての人々の要望に留意し、応えるものでなければならないのだ。


国際経済機関の指導のもとに進められたロシアの市場経済への移行と、自らで進め方を立案した中国の移行は実に対照的だった。一九九〇年の中国の国内総生産(GDP)はロシアの60%だったが、この10年の終わりには、その数値が逆転した。ロシアではかつてないほど貧困が増した一方で、中国はかつてないほど貧苦が減少したのである。


たとえ偽善的な犯罪杭をしていなくても、欧米はグローバリゼーションのお題目を唱えながら、その恩恵を自分たちばかりにゆきわたらせ、発展途上国を犠牲にするようなことをしたのだ。たとえば、織物から砂糖にいたる多くの産品に割当量を設定するなどして発展途上国の製品に対する市場開放を拒む一方で、相手には自分たち裕福な国の製品を受け入れるよう市場開放を要求しただけではない。また、先進工業国が農業に助成金を支給し続け、途上国が競争に参入するのを難しくする一方で、途上国には工業製品への助成金を廃止するよう要求しただけでもない。GATTのウルグアイ・ラウンド以降の「交易状況」-先進国と発展途上国のそれぞれが自国製品の代価として得る金額-を見てみるがいい。最終的に、世界の最も貧しい国々が受け取る総額は、輸入品にたいして支払う総額よりも低くなっているのである。その結果、世界で最も貧しい国のいくつかでは、人々の生活が実質的に悪化してしまった。


IMFは、経済の安定には世界規模の総体的な行動が必要だという信念のもとに設立された。ちょうど国連が、政治の安定には世界規模の総体的な行動が必要だという信念のもとに設立されたのと同じである。IMFは公的な機関であり、世界中の納税者が提供した資金によって運営されている。これはぜひとも明記しておくべきことだ。というのも、IMFは資金を出している市民にも、またIMFに生活を左右される人々にも、なんら直接的な報告義務を負っていないからだ。


経済プログラムを成功させるには、順序付け-改革が行われる順番の決定-とペースの調整に十二分の注意を払う必要がある。たとえば、強力な金融機関が設立されないうちに急いで市場を開放して競争を促せば新たな雇用が創出される前に職がなくなってしまうだろう。、多くの国では、順序付けと調整のミスが失業率と貧困の増大につながった。


IMFとその他の国際経済機関の問題は、煎じ詰めればマネジメントの問題である。誰がやることを決めるのか、何のためにそれをやるのか。これらの機関を支配するのは世界有数の富裕な工業国であり、それらの国の商業的、金融的利害なのであって、その政策にはおのずとそれが反映される。また、だれが国を代表するのかということからも問題が生じる。IMFでは、それは蔵相と中央銀行総裁であり、WTOでは貿易相である。


今日、IMFと世界銀行が活動するところは、ほぼ例外なく発展途上国である(少なくとも彼らの融資先はすべてそうだ)が、その機関を統括するのは工業国の代表者である(習慣からか暗黙の合意によってか、IMFの長は常にヨーロッパ人、世界銀行の長は常にアメリカ人である)。その選任は閉ざされた扉の背後でなされ、発展途上国での経験の有無が選任の必要条件とされたことは一度もない。これらの機関は、それが奉仕する国の代表者ではないのだ。


なによりグローバリゼーションは、その恩恵を広くその国全体にゆきわたらせることができなかった。「ワシントン・コンセンサス」で定められた政策の最終的な結果は、たいていの場合、多数を犠牲にして少数に、貧乏人を犠牲にして金持ちに恩恵をほどこすことだった。多くの場合、配慮されていたのは商業的な利益や価値であり、環境や民主主義や人権や社会正義ではなかったのである。


連邦政府はアメリカの成長をうながすことに中心的な役割を果たしただけでなく、積極的な再分配政策を行わない場合でも、少なくとも恩恵が広く共有されるような計画を実施した。教育を広め、農業の生産性を向上させる計画だけでなく、すべてのアメリカ人に最低限の機会を与える土地払い下げも実施した。
今日はどうか。輸送と通信のコストがどんどん下がり、産品、サービス、資本の流れを阻む人工的な障壁も減少している(ただし労働者の自由な流れに関してはまだ大きな障壁がある)。これを見る限り、かつて国民経済が生まれたのと同じようなプロセスで「グローバリゼーション」のプロセスが進行していると言えよう。ただ残念ながら、そこには世界政府がない。すべての国の国民に責任を持ち、グローバリゼーションのプロセスを監督してくれる存在がないのである。
そこにあるのは「世界政府のない世界統括」とでもいうべきシステムである。少数の機関-世界銀行、IMF、WTO-と少数の人間-特定の商業的、金融的利害と密接に結びついた金融や通商や貿易の担当相-が全体を支配して、その決定に影響される多くの人々はほとんど発言権のないまま取り残されている。


世界銀行は貧困の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命とする。どちらもエコノミストの一団を海外に派遣して三週間ほど視察させているが、世界銀行の方は援助しようとする国にかならず少数のスタッフを長期的に駐在させるよう取り計らっている。一方、IMFにはたいてい「居住者の代表」が一人いるだけで、その権限も限られている。計画は通常、ワシントンが立案し、短期間の視察を経て最終決定される。視察するスタッフは首都の快適な五つ星ホテルに泊まりながら、財務省や中央銀行で統計を調べるだけである。


IMFの論理の明らかな問題点は、貧しい国は援助の金を援助の目的に使えないと暗に言っていることである。例えば、スウェーデンがエチオピアに学校建設のための資金を与えたとしよう。この論理によれば、エチオピアはその金を蓄えにまわさなければならない(すべての国は『いざというとき』のために準備金勘定を持っているはずである。金は伝統的な準備資金だが、今日ではハードカレンシーに取って代わられつつある。準備金として最も一般的なのは、アメリカ財務省短期証券を持つことである)。
しかし、外国の資金提供者は、そのために援助したのではない。IMFとは関係なく独自に活動している資金提供者は、エチオピアに新しい学校病院が建設されるのを見たかったのである。


IMFのマクロ・エコノミストはたいてい自分たちが発展途上国で直面しなけれならない問題に対して十分な訓練を受けていない。IMFが定期的に卒業生を採用している大学のいくつかは、主要なカリキュラムで一切失業問題を扱っていないのだ。


現在のIMFは自らを、経済の完全雇用の状態に維持することに勤める赤字融資者だとは考えていない。むしろ、お金を借りる国がIMFの考える適切な経済政策に従う場合にのみ、ケインズ的立場から資金を分け与えるという方針をとってきた。だが、それはたいてい緊縮財政であるため、景気の後退を招き、事態にをいっそう悪化させるのだ。

「融資条件」と呼ばれるのはもっと強制力のある条件で、これがしばしば融資を政策手段に変えてしまう。たとえば、iMFがある国に金融市場を自由化させたいとすると、IMFはその融資を分割して行う。以後の融資は、自由化を進めている証拠が得られるたびに実施されることになる。私個人の考えを言えば、少なくともIMFのこれまでのやり方や強制力の強さからして、このような融資の条件には賛成しかねる。これが経済政策の向上につながるという証拠がない一方で、政治的には逆の影響を及ぼすからだ。


韓国の危機のさなかに、韓国の中央銀行はもっと独立するよう要求されただけでなく、物価上昇率だけに注意を払えとも言われた。韓国の物価上昇率に問題はなく、まずい金融政策がその時の危機に関係しているわけでもなかったのに、である。IMFは危機によって与えられた機会を利用し、自らの政治的な信念を推進しただけだった。私がソウルでIMFのチームになぜこんなことをやっているのかと聞いた時、帰ってきた答えは衝撃的だった(それまでの経験からして驚くべきことではなかったが)-われわれはどんな国にも、物価上昇率に敏感な独立した中央銀行を持つよう勧めている、というのだ。


IMFは、すぐに市場が生まれてあらゆる需要を満たすと単純に推測していたが、現実には、市場が必要なサービスを提供できていないから多くの政府活動が必要とされるのだ。


民営化を急いで進めることが重要だとIMFは主張する。競争や規則の問題にはあとで対処できるだろうと言う。だが、そこに危険がある。ひとたび既得権益が生まれてしまうと、そこには資金もあるから、専売権を維持しようとして規制や競争を押しつぶし、民営化のプロセスを歪めてしまう。IMFが競争や規制を後回しにしようといったのには、それなりの理由がある。民営化で規制のない専売会社をつくると、結果として政府の収入が増えることになる。そしてIMFは、産業の効率性や競争力といった構造的な問題よりも、政府赤字の規模のようなマクロ経済的な問題を重視する。民営化された専売会社が政府よりも効率的な生産をするかどうかはさておき、彼らはその専売権をたいてい政府よりも有効に活用する。その結果、消費者が苦しめられる。


今日、多くの国では、民営化は「収賄化」だと揶揄されているほどである。政府が腐敗しているからといって、民営化すればその問題を解決できるという証拠はほとんどない。結局は、会社を私物化していたのと同じ腐敗した政府が、民営化の舵を握るのだ。あちこちの国で、政府の役人は気づきはじめている。民営化をすれば、もう年に一回だけ収益をかすめ取るだけで満足する必要はないのだ。政府事業を市場価格より安く売れば、資産価値のかなりの部分を次の役人に残さず、自分のものにしておける。実質的に、彼らは未来の政治家がかすめ取る分の大半を、いまのうちに盗んでしまえるのである。


IMFは保護貿易主義の壁に守られて形成されてきた非効率的な仕事が排除されれば、新しいより生産的な仕事が生まれるはずだと信じてきた。しかし、それは事実ではない。少なくとも大恐慌以降、それほど瞬時に雇用が創出されると信じているエコノミストはほとんどいない。新しい会社や仕事が生まれるには、資本と起業家精神が必要だが、たいていの発展途上国ではそのどちらも不足している。後者は教育がなされないためで、前者は銀行融資がないためである。


貿易自由化は約束したことを実現できないどころか、失業率を高めるだけという例があまりにも多かった。だからこそ、強い反対が起こるのである。しかし、貿易自由化への敵意を疑いなく強めたのは、これを推進する際に見られた偽善だった。欧米は自分たちの輸出する製品に関しては貿易の自由化を進めたが、その一方で発展途上国の競合品に経済を脅かされそうな分野については保護政策をとり続けた。


中国が実証している通り、資金を引き付けるのに資本市場の自由化は必要ではない。むしろ、事実はこうだ。東アジアの高い貯蓄率(アメリカではGDPの18%、ヨーロッパでは17%から30%なのに対し、東アジアは30%から40%)を考えれば、この地域に追加の資金はほとんど必要がない。東アジアの政府はすでに、貯蓄をいかにして投資に回させるかという頭の痛い課題をかかえているのだ。


おそらく、アメリカ政府も含めて、各国政府がやってきたことの中で最も重大なのは、発展途上国に極めて不利な協定をその国の腐敗した政府に調印させて、頭ごなしに守らせたことだろう。インドネシアのジャカルタで開かれた1994年のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)閣僚会議で、クリントン大統領はアメリカ企業のインドネシア参入を奨励した。多くの企業がそれを実行した。そして、たいていは非常に有利な条件のもとに実行した(インドネシア国民にとっては不利な条件なのだから、『心づけ』が渡されていたことは間違いないだろう)。


シンガポール、中国、マレーシアなど、外国投資の濫用を抑えた多くの国でも、外国の直接投資が重大な役割を果たしたのは資本面ではなく(貯蓄率の高さを考えれば資本は全く必要ではなかった)、起業家精神でもなく、外国からの投資がもたらす市場への参入機会と新しいテクノロジーの面だった。


IMFは、セーフティ・ネットが整備される前に、十分な規制構造ができあがる前に、近代資本主義の本質である市場心理の突然の変化に国が耐えられるようになる前に、自由化を強要した。雇用創出の必須条件が整う前に、雇用破壊につながるような政策を強要した。そして十分な競争と規制構造ができあがる前に、民営化を強要した。こうした多くの順序の間違いは、IMFが政治のプロセスについても経済のプロセスについても根本的に誤解していることを示していた。それは主に、市場原理主義を信奉することからくる誤解だった。たとえば、彼らは私有財産権が確立されていさえすれば、ほかのすべてはおのずとできてくると主張した。制度も、市場経済を機能させる法的な枠組みされも。


開発の過程で生じる急激な変化が社会に大変なストレスをかけることは避けられない。伝統的な権威は危うくなり、伝統的な人間関係も見直される。だから開発に成功するには、社会の安定に格別の注意を払わねばならない。


IMFと世界銀行はアメリカ財務省の縄張りの一部であり、そこではほとんど例外なく、財務省が自分の見解を押し通せるのだ。ちょうど他の省庁が、それぞれの縄張りで自分の意見を押し通せるように。


重要なのは、IMFの優先事項に何が入っているかだけでなく、何が外されているかを見ることだ。経済の安定は予定表に入っている。雇用の創出は入っていない。増税は、その逆効果も含めて入っている。農地改革は入っていない。銀行救済のための資金はあるが、教育や保健のサービスを向上させるための資金はない。もちろん、IMFのマクロ経済管理の誤りで仕事を失った労働者を救済するための資金もない。


ワシントン・コンセンサスの貧困政策のあらゆる欠点は、今や明らかである。これまで見てきたように、金利の高騰がともなう貿易自由化は、雇用破壊と失業創出を招くばかりであると言ってよく、犠牲にされるのは貧困層だ。そして適切な規制をともなわない金融市場の自由化は、経済を不安定にするだけであると言っていい。金利を下げるどころか、逆に上げてしまい、貧しい農民に種子や肥料を買えなくさせる。したがって、農民はなかなか最低限の生活から抜け出せない。さらに民営化も、競争政策と専売業者の強権濫用を抑える監督機能をともなわない限り、消費者価格を下げるどころか吊り上げてしまう。ふさわしくない環境でむやみに追及された緊縮財政も、高い失業率につながって社会契約を粉々に砕く。


(IMFとは)別の戦略をとる人々は、市場を利用しながら、政府にも重要な役割があることを認識していた。改革の重要性を認識していながらも、その改革はゆっくりと正しい順序で行われなければならないとわかっていた。変化を単に経済の問題とみるのではなく、もっと広い社会進化の一部ととらえていた。長期的な成功を目指すには改革への幅広い支援が必要であり、幅広い支援を取り付けるにはその恩恵が広く行き渡らなければならないとわかっていた。


IMFは解決をもたらすどころか、IMFそのものが各国の問題の一部になっていたのだ。実際、危機に見舞われたいくつかの国では、政府の役人やビジネスマンだけでなく、普通の人々までもが、自分たちの国を襲った経済的、社会的な嵐を「疫病」とか「大恐慌」と呼ぶような調子で、ずばり「IMF」と呼ぶようになっている。歴史は「IMF」以前と以後に分けて語られるようになった。ちょうど地震やその他の天災で大きな被害をこうむった国が、ものごとの日付を地震の「前」と「後」で区切っているように。


資本の自由化は、発展途上国を投資家の世界の気まぐれにさらすだけでなく、彼らの不合理な興奮と悲観にもさらすことになる。


IMFの企業再構築戦略-ほとんど破産しかけている会社の再構築戦略-は、銀行再構築戦略と同じくらい成功しなかった。IMFは財務上の再構築-誰が実際にその会社を所有するのか、債務免除されるのか、それとも株式に転換されるのかをはっきりさせること-と、実際の再構築-会社が何を生産すべきか、どのように生産すべきか、どのような組織にすべきかといった実際的な決定-を混同していた。


経済政策は、どんな場合にも経済下降の深刻さと持続期間を最小限にすることを目標にすればよいのだ。残念ながら、これはIMFが目指したことでも果たしたことでもなかった。


借金は本質的にリスキーなものだ。資本市場の自由化や、危機が起こった時に金利を法外なレベルまで引き上げるといったIMFの戦略は、借金をさらにリスキーなものにする。となると、会社にとって合理的な対策は借金をもっと少なくして、その分を社内に留保した利益に頼るということになる。そうなれば、将来の成長はある程度まで抑えられ、資本もそれほど自由には生産的な用途へ流れなくなる。おのように、IMFの政策は資源配分の効率、特に発展途上国では最も乏しい資源である資本配分の効率を悪くする。IMFはこの弊害を考慮していない。なぜなら、IMFのモデルには情報の不安定性が資本市場に及ぼす影響を含めて、資本市場が実際にどう機能するのかが反映されていないからだ。


世銀とIMFは腐敗した政府への援助に対して表面的には断固たる姿勢でのぞんできたが、そこにダブルスタンダードが存在することは明らかだった。ケニアのような戦略的に重要性の低い小国には汚職を理由に資金援助を拒否しておきながら、はるかに規模の大きい汚職が横行しているロシアのような大国には、持続的に資金援助がなされていたのである。


私が出会った、ロシアをはじめとする旧ソ連邦諸国の有能な学生は、欧米に移住したいという夢を抱いてひたむきに働いている。こうした損失は、ロシアで暮らす人々にとって、現在ばかりか、将来にわたってどのような影響をもたらすかという点で大きな意味を持つ。歴史的に、法律と民主主義に基づく社会を創造するさい、中心となるのは中産階級だからだ。


誤った方法で実施された民営化は効率の改善にも成長にも繋がらず、資産の略奪と衰退を招いただけだった。


資本市場の自由化や民営化は資金の国外流出を容易にし、法的基盤が整う前に民営化を推進したことは、ロシアの将来への投資ではなく、資産略奪の機会を与え、よこしまな動機を強めてしまった。


成功の要因は、自国のニーズや危惧に敏感なそれぞれの国の住民が策定した「国内産」の戦略にあった。中国やポーランドやハンガリーは、型にはまった手法はとらなかった。この三国をはじめとして、以降に成功した国はきわめて現実的であり、政策の決定にあたってイデオロギーや教科書のモデルをそのまま踏襲することはなかった。


IMFのような国際機関の国際政策について合理的な見解を形成するには、市場が機能しなくなる重要なケースを見極め、その失敗によるダメージを個々の政策によって防止、あるいは最小限に抑える方法を分析する必要がある。さらに、介入に踏み切る場合には、その介入が市場の失敗に取り組み、問題が起こる前に対処し、実際に問題が起こった時に改善をはかるうえで最善の策であることを示す必要もある。すでにみたように、ケインズは、各国が単独では十分な景気浮揚策をとれない理由を分析し、説明した-どの国も、他の国々にもたらす利益を考慮に入れないからだ。だから、各国政府が自発的にとる以上の景気浮揚策を実施するような国際的な圧力をかけるというのが、IMFの本来のや役割であるはずだった。


標準的な市場経済理論では、貸し倒れになった貸し手は結果について責任を負う。おそらく借り手は破産するだろうし、各国にはそうした破産の処理に関する法律がある。市場経済理論はそのように機能するのが普通だ。ところが、IMFのプログラムは、欧米の債権者を救うために繰り返しその国の政府に資金を供給する。債権者はIMFの救済措置をあてにするようになり、借り手が返済可能かどうかを確かめようとする気持ちも弱まった。これが、保険業界でよく知られ、今では経済学でもよく知られている悪名高い「モラルハザード」の問題である。


金融市場では時々、実際には信用供与に値する国が融資を拒否されるという不合理が見られる。IMFはもともと、そうした不合理が引き起こす流動性の危機に対処するためにつくられたのだが、その危機を早めかねない個人や機関に金融政策の権限を与えようとしていたのだ。つまり彼らが融資するのは、進んで融資しようという気になれる時だけだった。
IMFに自覚がなかったとはいえ、貸し手の側はすぐにその変化の深い意味を読み取った。貸し付け希望国に対して貸し手が貸し付けを拒んだり、精算への協力を拒んだりすれば、希望国は-IMFからだけでなく、IMFの承認を条件として融資をする世界銀行やその他の機関からも-資金が得られなくなる。債権者は突然、非常に大きな力を手にしたのである。


IMFの本来の目標は、世界の安定性を高め、景気後退の脅威に直面する各国が景気浮遊策をとる資金を確保することだったが、IMFはこれらの目標を追求するだけでなく、金融界の利益をも図っているのだ。つまり、iMFが掲げる目標はたがいに矛盾していることがしばしばあるのだ。
緊張がますます高まっているのは、この矛盾が明るみに出せないからである。新たな役割が公然と知られるようになれば、IMFへの支持が弱まることを、「使命の変更」をやり遂げた連中が知っていたことはほぼ確実である。このため、少なくとも表面的には古い使命と矛盾しないように見せかけて新しい使命を隠す必要があった。あまりにも単純な自由市場イデオロギーを前面に押し出し、その陰に隠れて「新たな」使命にしたがって仕事をしていたのだ。


はっきりさせておくが、IMFは公式にその使命を変えたわけではないし、グローバル経済や本来IMFが助けるはずの貧しい国の福祉よりも金融界の利益を優先することを公にしたわけでもない。どんな機関についても、その動機や意図をあれこれ論じたところで意味はない。意味があるのは、実際にその機関を構成し、運営しているメンバーの動機や意図を論じることだけだ。その場合でも、真の動機をつきとめることはなかなか難しい-彼らが公表する意図と真の動機の間には隔たりがある場合が多いからだ。


重要な契約がもう一つある。市民や市民社会と政府との間の契約で、時に「社会契約」と呼ばれるものがそれだ。その契約は妥当な雇用機会の確保など、社会や経済の基本的な保護規定を要求する。IMFは、融資契約の尊厳と考えるものを守ろうとして誤った方向に動き、より重要な社会契約を破ることはいとわなかったのだ。つまるところ、市場をむしばみ、経済と社会の長期的な安定をゆるがしたのはIMFの政策だったのである。


IMFを民間セクターの債権者のための政策を実施する機関だとみると、IMFのその他の政策ももっと理解しやすくなる。すでに指摘したように、IMFが重視したのは貿易赤字であり、危機のあと東アジアに課された大規模な緊縮政策は輸入量の急激な減少につながり、外貨準備金が大幅にふやされた。債権者への返済能力を心配する機関という観点からすると、これは理解できる。準備金がなければ、国や国内企業が借り入れたドルを返済できないからだ。だが、世界の安定と、関係諸国や地域の経済復興に焦点を当てたなら、準備金を増やすことについてはもっとゆるやかなアプローチをとり、同時に国際投機家の気まぐれから各国を守るため別の政策を考えていただろう。


透明性の欠如が指摘されているにもかかわらず、東アジアは著しい成長を遂げただけでなく、めざましい回復力をも示した。IMFやアメリカ財務省が主張するように東アジア諸国が「非常に脆弱」だったとすれば、それは透明性の欠如によるのではなく、別の良く知られた要因-IMFがこれらの国々に金融・資本市場の時期尚早な自由化を強く求めたこと-によるものだった。
振り返ってみると、こうして透明性を重視した理由が「透けて見える」。金融界にとっても、IMFやアメリカ財務省にとっても、責任転換して、自らの信頼性の危機を回避することが重要だったのだ。IMFと財務省が東アジアやロシアをはじめとする各国で勧めた政策は間違っていた。資本市場の自由化は投資の不安定化につながり、金融市場の自由化は貸し出し態度の悪化につながった。復興計画が思ったように機能しないと見ると、IMFと財務省はさらに責任を転換しようとして、真の問題は別のところ、つまり苦しんでいる各国自体にあるのだと主張した。


アメリカ財務省は1990年代初頭に資本主義の世界的勝利を宣言し、IMFとともに「正しい政策」-ワシントン・コンセンサスに基づく政策-にしたがう諸国には成長が保証されると語った。東アジアの危機に際して、資本主義に問題があるのではなくアジア諸国とその誤った政策が悪いのだということが示されない限り、この新しい世界観はくつがえされてしまう。
だからこそIMFとアメリカ財務省は、問題は改革そのもの-資本市場の自由化、とりわけその神聖な信条の実現-にあるのではなく、改革が十分に実行されなかった事実にあるのだと論じざるを得なかった。そして、危機に瀕した諸国の弱さに焦点を当てることによって、自分たちの失敗-政策の失敗と貸し付けの失敗の両方-について責任を転換しただけでなく、その経験を生かして自分たちの政策をさらに推し進めようとしたのである。


グローバリゼーションは、民主主義とより大きな社会正義を求めて戦う活気のあるグローバルな市民社会をもたらすと同時に、世界の健康状態の改善をもたらした。問題はグローバリゼーションにあるのではなく、それをどのように進めるかにあるのだ。問題の一端は、国際的な経済機関、すなわちIMF、世界銀行、WTOにある。これらの機関は、ゲームのルールを決めるのに手を貸すにあたって、たいていの場合、発展途上国の利益よりも先進諸国の利益-それも、その一部の利益-を考慮してきた。そればかりでなく、グローバリゼーションへの取り組みでは、経済と社会についての特定の観念によってつくられた偏狭な思考パターンによって対処することがあまりにも多かったのである。


IMFの思考を支配してきたのが金融界の利害であるとすれば、WTOでは商業界の利害が同じように支配的だった。たとえばIMFは貧しい人々にかかわる事柄にすげない態度をとる。銀行を救済するためなら何十億という金を出すのに、彼らのプログラムのせいで職を失った人々には食料助成金とするわずかな金額さえ惜しむのだ。ちょうどこれと同じように、WTOも自由貿易をすべてに優先させる。エビ獲り網にウミガメもかかってしまい、ウミガメの種の存続が脅かされているとしてこのような網の使用禁止を求める人々は、WTOからにべもなく、そういう規制は自由貿易への不当な侵害だと告げられる。貿易の利益が他のすべてに、自然環境にさえも優先することを知らされるのだ。


最大の課題は機関そのものにあるだけでなく、思考パターンにもある。グローバリゼーションの潜在的利益を現実のものとするためには、環境に配慮すること、貧しい人々が自分たちに影響を及ぼす決定に発言権を持てるようにすること、そして民主主義と公正な取引を堅持することが必要なのである。


世界は複雑なところである。社会の各グループは、自分たちに実際、最も影響を及ぼす部分に関心を集中する。労働者は職と賃金が気にかかるし、投資家が気にかけるのは金利であり、債務の弁済を受けることである。高金利は債権者にとってよいことである-貸した金の返済を受けられる限りは。だが、労働者にとって高金利は経済の減速をもたらすものであり、彼らにとっては失業を意味する。彼らが高金利に危険を見てとるのは不思議ではない。また長期で金を貸し出した投資家にとって真の危険はインフレーションである。インフレが起こると、返済を受けるドルが、貸し出したドルよりも価値の低いものになるからだ。


問題なのは、広範な合意のない提案や政策勧告をあたかも定説樽かのようにIMFが提示することである。資本市場の自由化の場合がまさにそうで、根拠は乏しく、反証はたくさんあった。どんな経済もハイパーインフレのもとではうまくいかないということについては合意があるが、インフレを低いレベルで抑えることがどれほどの利益を生むのかについては意見の一致はない。インフレのレベルを低下させることがコストに見合った利益をもたらすという証拠は、ほとんどないのだ。


経済学がすべてに優先され、経済学に特有のものの見方-市場原理主義-がすべてのものの見方に優先されることが、グローバリゼーションに対する不満をかきたてている。世界各地にみられる反対運動は、グローバリゼーションそれ自体-成長のための新しい資金源や新しい輸出市場-にたいするものではなく、特定のドクトリン、すなわち国際金融機関が押し付けてきたワシントン・コンセンサスに対する反対なのだ。言ってみればそれは、ただ一組の政策が正解として存在するという考え方に反対しているのである。


自由で束縛のない市場を信じる者にとっては、資本主義の自由化が望ましいのは明らかな事実であり、それが成長を促すことを示す証拠など必要なかった。たとえ資本主義市場の自由化が不安定化が不安定をもたらす証拠があったとしても、それは市場経済への移行にあたって耐えなければならない痛みであり、一つの調整コストに過ぎないとして無視されたのだ。


ある機関の思考パターンは、必然的にその機関が直接的に説明責任を負う相手と関連がある。投票権が重要であり、また-投票権は制限されていたとしても-誰がテーブルにつくかが重要なのである。それによって、誰の意見が受け入れられるかが決まるからだ。IMFは、銀行小切手決済システムをより効率的にする方法のような、銀行間の技術的な取り決めに関与しているだけではない。発展途上国の何十億という人々の生命と暮らしに影響を及ぼす決定に関与しているのだが、途上国の人々はIMFの措置について発言権をほとんどもたないのである。


グローバリゼーションをしかるべきかたちで機能させるために必要な根本的な変革は、ガバナンスの変革である。これは必然的に、IMFと世界銀行の投票権の変更に伴い、また国際経済機関のすべてに変化をもたらす。それにより、WTOでは通称大臣の意見だけが尊重されることはなくなり、IMFと世界銀行では財務省や中央銀行の見解だけが受け入れられることはなくなるだろう。


グローバリゼーションが民主主義に何をもたらすかである。グローバリゼーションでは、これまで主張されてきたように、国のエリート層による旧来の独裁が、国際金融による新たな独裁にとってかわられることが多かった。各国は事実上、一定の条件にしたがわなければ資本市場あるいはIMFに融資を断られる。要するに、主権の一部を放棄するよう強いられるのだ。


最も重要なのは、途上国には有能な政府が必要だということだ。つまり、強力で独立した司法部を持ち、民主的な説明責任を果たし、開放性と透明性を備え、公共セクターを成長を阻害してきた腐敗とは無縁な政府が必要なのだ。
発展途上国が国際社会に要求すべきことは、たとえば誰がリスクを引き受けるべきかについて、自らの政治的判断を反映するかたちで途上国自身が選択する必要と権利を手に入れること、ただそれだけである。発展途上国は、先進国のためにつくった雛型を受け入れるのではなく、それぞれの状況に適した破産法と規制体系を自由に採用できるべきなのだ。


国がとらなければならない政策をごく少数の人間が決定している限り、この種の開発は進展しない。民主的な決定が下されるようにするというのは、発展途上国の広範なエコノミスト、当局者、エキスパートが議論に積極的に参加できるようにすることを意味する。また、エキスパートや政治家だけでなく、幅広い層の参与がなければならないことも意味する。発展途上国は自らの将来を引き受けなければならない。だが、われわれ欧米諸国も責任を逃れることはできない。


経済学は選択の科学である。


to be continued・・・


0 件のコメント:

一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...