2012年7月9日月曜日

知性の限界(食べる読書107)




おもしろく多様な考えを知ることができると感じた。


本書には極端な人たちが登場し議論を進めていく。論理実証主義者、カント主義者、哲学史家、フランス国粋主義者などなど…だ。


彼らの発言がその考えをそのまま表現しているため、どう表現すればいいかわからないが、何というか”思考の擬人化”みたいな感じを受けた。そのため多様な思考とともに、人類の思考の歴史も知ることができる。


読みながらいろいろ考えさせられたが、ちょっと退屈に感じた個所があったことも確かだ。


なぜなら、その議論って大切かあ?と思う個所があったりしたからだ。そもそも問題提起自体がずれているから、そこに全力で取り組んでもなあ…、みたいな。


しかし、そうは言ってもとても勉強になる本であることに変わりはない。


多様な考えの紹介本という位置づけだと思う。この本で興味のある分野が見つかったのならその専門書をかじればもっと理解が深まるだろう。


いろんなとこに話題が飛ぶが、楽しかったです。


ありがとうございます。


以下抜粋


なぜなら、科学者共同体の認識そのものが、歴史・社会的構造の一部にすぎないわけですから…。


この世界で「明らかに語りうる」ことは、真か偽かを「論理的」に決定できること、あるいは事実か否かを「経験的」に実証できる言語に限られるということです。


「疑いが成立しうるのは、問いが成立するときに限り、問いが成立しうるのは、答えが成立するときに限り、答えが成立しうるのは、なにごとかを語りうるときに限る」


世界内に存在する私たちには語ることはできないにもかかわらず、「語りえないこと」があることを認めているように映りますね…。


真の平等が保証されなければ、誰も哲学など語る権利はないのよ!

ウィーン学団は、ウィトゲンシュタインのスローガンをされに推し進めて、世界を論理によって分析し、科学によって実証して認識しようとする「科学的世界把握」の立場を掲げました。


現実社会で一種の論理実証主義を実践しているのは、裁判所です。法廷において、検察官や弁護人や裁判官の論述は、何よりも「論理」的に構成されていなければなりません。また、裁判に登場するいかなる証拠や証言も経験的に「実証」されなければ意味を成さないわけです。


言語が意味を持つのは、ルールにしたがうためであり、そのルールは、社会集団の「生活形式」によって習得されるとみなされるわけです。


地球上のあらゆる人間は、基本的に何らかの文化圏に所属して生きているわけですから、文化的に完全にニュートラルな人間など存在しません。すべての人間が思考を始めた時点で、何らかの自文化を基準としているはずで、その影響なしに思考することはできないのです。


「語が何を指示しているのか」という問題を追究するとき、私たちは言語を用いて答え続けるしか方法がありません。しかも、どこまで適用範囲を狭めて問題に答え続けたとしても、その言語が、言語外世界の特定の対象に対応していると確定することができない…。つまり、「指示」の問題は、あくまで言語内部で生じる問題であって、言語を超えて「語りえない」点に限界があるわけです。


後期ウィトゲンシュタインの本質的な主張は、「言語の意味とは、その使用である」という結論に表されています。


近代科学が前提とする「帰納法」は、何よりも多くの個別的事例を「観察」して、それらの共通する普遍的パターンとしての「理論」を発見する方法でした。その集大成ともいえる論理実証主義においては、あらゆる経験的知識が、「純粋な観察」の集積によって与えられるものとみなされたわけです。
ところが、ハンソンによれば、そのような「純粋な観察」は存在しません。「観察」は、常に一定の「理論」を背負っているわけで、「理論」に基づかない「観察」は存在しないのです。これをハンソンは「観察の理論負荷性」と呼んでいます。


物理学者が観測データを通して物質の構造を「見て」いたり、音楽家が楽譜を読むだけで曲の流れを「見て」いることと同じで、彼らは、その背景理論を知らない素人には理解できない内容を認識しているのです。


私たちが、お互いの認識の一致を絶対的に確定することのできるような客観的基準が存在しないわけですから、私たちは言語に対して相対的な認識しか持つことができないのです。


とくに、ある種のテクストが難解なのは、きわめて深遠な内容を扱っているからだという評判を「脱構築」したいのである。多くの例において、テクストが理解不可能に見えるのは、他でもなく、中身がないという見事な理由のためだということを知っていただきたいのである。



「普遍」的な前提から「個別」的な結論を導く推論方法は「演繹法」と呼ばれ、その逆に、「個別」的な前提から「普遍」的な結論を導く推論方法は「帰納法」と呼ばれます。


ゼロからスタートする「企業家」は、過去に例のないことに挑戦します。ですから、彼らが直面するのは、過去の統計・確率から推定できる「危険性」ではなく、まったく未知の「不確実性」なのです。


これまでの科学は、系を構成する要素の法則を明らかにして、それらを足し合わせれば系全体の動きを予測できるとする「要素還元主義」に基づいていました。ところが、複雑系では、系を構成する要素の法則を足し合わせても、予測不可能な運動が内部に発生するため、系全体の動きを予測できません。その意味で、複雑系はまったくランダムに動くように見えます。


ファイヤアーベントは、方法論的アナーキズムを科学や哲学ばかりでなく、合理主義や西洋文明一般にまで推し進め、そこから彼が導いた結論は、単に科学理論ばかりでなく、あらゆる知識について、優劣を論じるような合理的基準は存在しないというものだった。


反証された理論を生かし続けることにも重要な意味があるのであって、これを絶滅した恐竜と同じ扱いにはできないということだよ!


ファイヤアーベントは、「科学」を進歩させるためには、観察とはまったく無関係の「形而上学」が必要だと述べている。論理だとか実証だとか、法則だとか観察だとか規制ばかりを押しつけてくる「理性」に拘りすぎるなということだよ。


基本的に、多くの哲学者や形而上学者の論法は、頭からすべて間違っているようなことはありません。それぞれ一面では正しいことを言っていても、それらを統合した結論が大きく違ってくるのがおもしろいところでして…。


「自分の話し方の基準にこだわって、その基準に合わないものは何でも拒否してしまう。いったん話題が馴染みのないものになり、自分の型にはまった判断からはみ出すと、たちまち見慣れない服を着た主人に出合った犬みたいに、途方にくれてしまう。逃げ出したらいいのか、吠えたらいいのか、咬みついたらいいのか、それとも顔を舐めたらいいのか、ってね…」


以上
またね***



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一枚の葉

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