2012年7月2日月曜日

情報の歴史を読む(食べる読書103-3)




本書をきちんと理解できたわけではない。が、多くを学んだと思っている。


また、まだまだ学ぶべきことは多いとも感じた。


たしかに情報それ自体にすでに価値観が含まれているのだろう。それは無秩序から秩序をうみだす過程においてどうしてもそうなってしまう。どう”区切る”かによって情報も変わるからだ。そして、そういう”区切り”方をすることで浮かび上がってくるものが関係の発見になる。


ニュートンの区切り方に対してアインシュタインは新たな区切り方をした。そのことによって現実世界の見えてなかった関係が見えてきた。


そして、言葉自体もなんというかその文化の概念に縛られたものである。


歴史は関係の発見の連続と今から振り返るとわかる。


では、現状を打開しより良くするにはどんな関係を発見すればいいのだろうか。また、どうすればその発見ができるかをわれわれは事前に知ることはできるだろうか。


おそらくどちらもできない。どんな発見が必要か、どうすればその発見ができるかどちらも事前に知ることはできない。


しかし、ある程度の予測というか、どこにあるかという範囲というのはわかるのではないか。


歴史は強者の情報独占の連続ともいえる。つまり、その独占した情報は当時の一般市民にとってどんな意味を成していたかがわかればいい。この一つをおさえれば人は自分の言いなりになるといった情報だ。下世話な言い方をすれば弱みを握る。


いや、そうではない。おそらく洗脳だ。ここでいう情報独占とは他の人が持っていない情報を自分だけが持っているということではない。言葉以前の観念においても自分の都合のいいように作り変えることだ。つまり、文化自体をコントロール下に置くこと。


なんだか陰謀論のようだが、おそらくそうだろう。


いま水滸伝を読んでいるが、梁山泊が天下をとるにはなにか、もっと決定的ななにかが足りないと感じる。戦で勝つだけではすべてを掌握はできない。人の生活すべてにおいて一貫した、なにかしらの価値観を植えつけないことには…。戦だけにそれを背負わせるには荷が重すぎる。たしかに、街に宋とは違った経済を確立しようとはしているが心もとない。


むずかしさがここにある。新たな関係の発見のだ。もうすでに既存の価値観にどっぷりつかっており、そういう社会でおのれを確立してしまっているのだ。一般の社会人などは。新たな関係を発見するというのは、自分自身だけでなく、この社会をもある意味否定することになる。



だからダーウィンは「進化論」の発表を16年待ったし、デカルトも自説の発表に関して気をもんだ。ガリレオ・ガリレイは時勢に翻弄された。


ということを考えてみると、現状を打開する「関係の発見」とは、まずその条件として、既存の価値では見えない関係であること。それを発見する能力。それだけではだめで、この関係を世間に広めることのできる能力も不可欠ということになる。この二つがそろって初めて次世代は拓かれる。


これまで、いや現代においても”関係の発見”をしている人は多数いるだろう。しかし、いまはまだそんなセンセーショナルなことは話題にも上らない。なぜなら、彼らに現代社会を利用して自説を広める能力がないからである。誰かと手を組めばいいのかもしれないが、その人を口説き落とせる能力も必至といえる。



規模は小さいが、今話題の橋下徹は、後者の能力をもっているのではないかと思う。つまり、世間に広める能力だ。また、元首相の小泉純一郎もこの能力のある人なのだろう。どちらも中身はないが、人気は絶大だ。



現実は厳しいが、以上のことからこのことが言えるのではないか。既存価値とは異なる新たな関係の発見をする人は比較的多数存在するが、それを広めることのできる人物が極端に少ない。つまり、幸運にもあるいは偶然にも世間に広める能力も持ち合わせていた、あるいはそんな人と手を組めた人の自説のみが次世代を拓くといえる。はっきり言ってどう展開してもいいのだ、いまとは異なることになれば。人類は、またそこから自由に展開していける。


可能性は無限大。しかし、そこには次世代を呼び込むため現在を思い切り活用できる者にすべてかかっている。だから、可能性が無限大なのはその人だけであって、その他大勢は可能性はつねにひとつなのかも…。


また、こうとも見ることはできないだろうか。区切りとは物語と本書にあった。それはある観念を伝える・浸透させる・植えつけるためであろう。あるいは、そういう物語というかたちでないと観念として定着しない。まあ、どちらでもいいが、その植えつけられた観念のもとにできる社会は一つであろう。つまり、ひとつの状態を表すものである。一方、物語の役目は世間に広めることであるといえる。二つの能力のうち橋下徹のほうだ。


つまり”静”と”動”。


古代インドではこの”動”にあたる”なる”という動詞がないとあったが、時代はこの”静”と”動”の組み合わせであるといえるのではないか。


”動”に挟まれた”静”の時がひとつの時代。


こう2つに区切れるとは思ったが、”静”についてはなんとなく説明はできるが、”動”に関してはどう説明すればいいのやら。


どうやらこの区切り方は本質から遠ざかっているようだな・・、と思った瞬間に、この「静・動」という言葉自体が成り立つ現代社会の観念はどんなものなんだ?と興味がわく。


もし、静も動もないとしたら。我々はどんな文明を築いていたのだろう。いや、いまの文明に静と動はどう関わっているのか。


・・・



・・・


・・・


こんな、止まっているのか動いているのかわからない答えのない問いの答えを求めながら、筆を置きます。


以上
またね***



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