2012年7月2日月曜日

水滸伝七(食べる読書105)

理想の死にざま、いやそれがそのまま生きざまだった。


これまで多くの男たちが死んでいった。


しかし、この巻では私が最も理想とする死場を決めた男がいた。


雷横である。


元官軍で、宋江逃亡時に官軍をやめた。


あまり目立った活躍をしたわけではないが、しっかりと役割を果たしてきた。もちろん腕は立つ。


絶体絶命の中どうにか宋江救出に成功した梁山泊軍。しかし、まわりは官軍に囲まれているのに変わりはない。そのまま双頭山まで逃げ切れるかどうかといった状況だった。


そのまま官軍と対峙していては数に圧されてしまう。また、宋江の存在が思い切った戦術の妨げにもなっていた。まずは宋江を双頭山入りさせるのが先決だった。しかし、官軍は北からもやってくる。


移動しながらの決断だった。敵の数と質、味方の数と双頭山までの距離。一丸となって移動していたのでは敵に宋江の居場所を知らせるようなものだった。


おとりを複数つくった。


敵がおとりにひっかかるかはやってみないことにはわからなかった。そして、おとりの意味も決まっていた。


運よく、といえばいいだろうか、雷横のおとりに官軍はついてきた。


ついてきた官軍と宋江との距離が充分に離れたのを確認し、部下たちに双頭山への帰還を命令。


自身はひとり、五・六百騎を相手にする。


そして、…全うした。


敵を引き付け、部下を双頭山へ帰還させた時点で雷横の役目は終わっていた。あとの敵との戦いは、雷横自身の楽しみだったように感じる。誰にも邪魔されない、ただひたすらおのれの力を存分に出し切る。なにひとつ気にかけるものはない。ただひたすら、駆け、跳び、斬り、断つ。


最後のほんのわずかであったが、裸のありのままの人間の姿を見た気がした。


なぜ、雷横の死が理想と思ったか。


自分の命も含めて冷静に物事を判断し、結果として死んだからだ。命を恐れてもいないし、求めてもいない。ただ、なすべきことをやった。それだけだった。


武士道に言う「武士とは死ぬべき時に死に、死ぬべきでない時には死なない」を体現したと感じた。


そして、ソクラテスの死に通じるものを感じた。ソクラテスも、己の考えに従った結果として死んだ。哲学者は死を恐れるべきではないと。ただ真理にのみ忠実でいると。


死ですらおのれの目的を果たす一つの選択肢でしかなかった。


死をも含めて、俯瞰した視点でものごとを見ていた。


そして、どちらもあるがままに死んだ。まるで初めからそうなるようになっていたかのように。ほんとうにしぜんで、人生それ自体であるがまま死への流れとなっているのを感じた。美しさを感じる。死をもって完成するというと不謹慎かもしれないが、そう感じさせるのだ。


俺はこんなに美しく”高平大”という生を全うできるだろうか。


ものごとにとらわれ過ぎているな…。まだまだ小さい。この俺は・・・。


だが、この小ささを克服することもできる。


美しく、優雅に生きてやろう!


以下抜粋


「頭ん中で、振り回せばいいんだよ。うまく言えねえが、頭ん中じゃできるはずだ。それが大事なんだぜ。必ずできる。そのうち、俺じゃなく、おまえが頭ん中で、鉄鍬を振り回している。そんなもんなんだ」


以前は、死ぬことさえ許されないのかと、嘆いた。いまは、死ぬことだけは許されない。


信じることは、人にとって大切だぞ


「これを信ぜずして、なにを信じる。たとえ信じて裏切られたとしても、私は悔いることはないと思う」


「宋江様。私はいま、ほんとうに生きていると思えます。自分がやらなければならないのがなんなのかということも、私なりにわかっているつもりです」


「志がどうあるべきかなど、ひとりひとりで違う。おまえは土を捨て、闘いを選んだ。大事なのは、それなのだ。闘い抜くことができるのか。自分が選んだことを、やり遂げられるのか。志は、難しい言葉の中にあるのではない。おまえのやることの中にある」


「立ち止まらずに、考えろ。闘いながら、考えろ。それで、見えてくるものがある。立ち止まっていれば、いまと同じものしか見えん。そういうものだぞ」


「しかし、この世をなんとかするためには、必要なことです。世直しという志を私が知らなかったら、ほんとうに残酷なことだと思ったかもしれませんが」


兵たちは、気力を失ってはいなかった。徴兵された官軍の兵とは違って、自ら闘いを望んだ者たちだ。闘う目的も持っている。ぎりぎりの勝負では、作戦や指揮より、そちらの方が決め手になってくる。


私は心を動かさないことにした。戦だからだ。これからも、同志の死に出逢わなければならぬかもしれん。心を乱せば、判断を誤ることもある


ひとりひとりが、それぞれに生きている。宋江は、そう思った。それがひとつに集まり、梁山泊というものを、作りあげている。


「名誉は、自らの力で守るもの。私は、そう思っています」


誇りを穢された。だから闘う。史進が言ったことは、なんの抵抗もなく陳達の心にも沁みてきた。男とは、そういうものだ。


「馬鹿でいい。友だちを見殺しにするような男より、俺は馬鹿でいてえんだよ」


「解き放たれている。そうなるために、死の淵を歩いたのだろう。腕も、そうやってなくしたのだろう。しかしそれでおまえは、解き放たれた。心のままに動き、心のままにものを言える。そしてそれが、人の心を動かしてしまう。いいな、と私には思える」


「どんな些細なことかわからんが、逼塞している人間にも、必ず時は来る。兄であるおまえが、それを見逃さないでいてやることだ」


「裏切れないなにか。李応の弱いところを、ひとつしっかり摑むことができれば、たやすいのだがな」


人民を、どうやって使うのか。民の力を、どうやって借りるのか。思うに、魯達は大変な智恵者です。牢城では囚人を、城郭では民を、どう使えばいいか心憎いほどよく心得ています。


「とうに、なっているつもりです。諸葛亮孔明を気取るつもりはありませんから。ただ、いまはまだ、お側にいない方がいい、という気がするのですよ。時代の大きな流れを、あの庵から見つめていたい。名もない人々の声を聞きたい。いずれ、関勝殿に秋が来た時、私は必ずお側にいます」


民の力を、どうやって借りるのか。魯達はいま、それをはっきりと見せていた。鄭敬の手下はおろか、役人さえも手が出せない。そういう状況を、魯達は民の力を借りて作り出した。


「このけだものが、おまえを犯したか。そんなことで、人は穢れはせん。おまえはまだ、清いままだ」


「おまえは、穢れてはおらん。人は、自ら穢れるのであって、他人に穢されるのではない。そうなのだぞ、金翠蓮」



巧妙なやり方だと思ったものに、穴がある。


「恐らく、人民の姿に紛れているのでしょう。しかし、まとまっています。まとまった人間は、まとまったものを消費します」


人に吹き込まれた志が、本物であるはずがない


自分と較べると、どこか太いところがある。鼾を聞きながら、自遷はそう思った。


「これは、絶対に負けられぬ。すべての闘いは、ここからはじまると言ってもいい。梁山泊が、これからさらに大きくなるのか、ひと時の勢いを見せただけの叛徒で終わるのか、境目の時だ。いいな、みんな。民のために、志のために」


「死ぬなよ。しかし、死を恐れるな」


「自分では、馬鹿だと思ってる。それだけのことで、ほかの人間からはそう見えてねえ。肝心なのはなあ、石勇、自分が馬鹿だってことを忘れねえことさ。俺たちは、宋江殿や晁蓋殿、呉用や盧俊義や魯達と違って、馬鹿なんだ。ただ馬鹿は馬鹿なりに、守らなけりゃならねえもんはある」


以上
またね***



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