2012年7月27日金曜日

”みる”を見直す

”見る”でも”観る”でも、”診る”、”看る”、”視る”など、どれでもいいのだが、見るという動作は我々のなにを表しているのか。



他の生物と比較した場合、人間の視覚の意味が見えてはくる。だが、それは生物学的視点においてだ。



この”視点”ということも含めて考えてみたいのだ。




目的語が要る。



これが「見る」である。



見る主体があり、見られる対象(客体)がある。



主客が一致することはあるのか?



例えば、禅問答のようだが、「見ている自分を見ることは可能か否か」。



「我思う、ゆえに我あり」とは、一見それらしく見えるが、そうではない。この場合は単に視点を変えただけだ。つまり、主体が客体を変えることで新たな発見があったということだ。自分以外の客体から、それらを考えている自分を客体に変えることで、だ。



文法的問題なのかどうかはわからないが、主語と目的語が同じ「もの・こと」を示す文というのは存在するのだろうか。



「私が、私を見る」



パラドックスというのがある。アキレスと亀、うそつきの何々人、などなど。



以前も書いたような気がするが、パラドックスの存在は、言葉の限界を示していると考える。



つまり、言葉はどれだけ現実世界を正確に表現できるか、である。そして、言葉はそれを成し得ないからパラドックスが存在する。



無限ループに陥るような感覚があるのがパラドックスの特徴かと思うが、主客同一の文もパラドックスになるのだろうか。



と、こう問題提起してみたが、これは意味のある問題提起とは思えない。



以前、ゾーンについての本を読んだことがある。そこでは、弓道を極めるまでの外国人の例が書かれていた。



印象に残っているのは、「弓を引くのはあなたではない。何か知らないが大きな存在が弓をあなたに引かせているのだ。だから、その”とき”がくるまでは弓は引かれるだけの、そういうものではないのだ。」といった趣旨のことを師匠がこの外国人に言った言葉だ。



だから、この弓道の修業において、師匠は決して弓のひき方などを教えなかったという。




目的語とは、どうしても自分の外にあるものだ。なぜなら、主体が自分だからだ。もし、主客同一が可能ならば、それは、そういう存在であるということなのだ。



わかるだろうか。この転換が起こっている。



”見る”といった”~する”から、”~である”というふうに、概念自体がガラッと変わっている。



動作動詞から状態動詞への変換。




「私が、私を見る」から、「私は、私である」へ。




なにかをする際、われわれは”なにか”をするのである。




本を読む、勉強をする、売り上げを上げる、女を口説く、などなど。それはそのまま、本を読んでいない自分、勉強をしていない自分、売上の上がらない自分、女を口説かない自分、といった”状態”が前提となっている。




恐ろしいことだが、「よしっ!!勉強するぞ」と張り切ったところで、それは勉強しない自分がノーマルであることを宣言しているのである。



女を口説くのもそうだ。週末女性を口説くかあ!!と言ったところで、日ごろ女性を口説かない自分を認めちまっている。それが、自分であると。女性を口説いている自分が非日常的なのだと。それはそのまま、平日は”冴えない自分”を受け入れちゃっている。



何かを見る、何かをする、といった場合、われわれは普段とは違うことをしているのである。たとえ、それが自分の日常的な行動であろうと、それがあなた自身にさえなっていないのなら、同じだ。




「なぜ、山に登るのですか?」
「そこに山があるから」


と答えた登山家がいた。



そういうことなのだろう。



山があり、それに登る。その一連の行動習慣全体で”登山家”なのだ、彼にとって。



富士山だから登る、ではないのだ。



見えてきただろうか。”見る”という動作をしている限り、カミュの「異邦人」よろしく、いくら真剣に集中していたとしても、それがあなたではないのだ。



サッカー観戦を楽しむより、サッカーを楽しむ。


ロンドンオリンピックだが、マスコミに騒がれる選手たちはどういう”状態”で演技をするのだろうか。


「金メダルをめざす」のか「金メダルを取っているのが自分」なのか。自分の外にあるメダルなのか、そのメダル事態自分なのか。



動作動詞と状態動詞。



常日頃、どんな言葉を多く使うのか。


また、その言葉を使う目的より、それを使っている自分を”観て”、どんな”状態”なのか知ることは大事だろう。



”見る”から自分の現在地を知り、己を変える。変わったかどうかは、以前とは違う景色を”見て”いるかでわかる。



”見る”はあくまで、現状認識に使うべきだ。決してそれが目的になることはない。



”見る”を活かす。



自分の在り方を知るために。





少し焦点がずれるかもしれないが、こういうことが日常的に言えるのではないか。



自分が”見て”いるかどうかを知るいちばんわかりやすいのは彼女や家族の反応だろう。


彼女とデートなどしていて、そのデート自体を楽しんでいなく、そのでデートを”見て”いたり他のことに気を取られ心ここにあらずだったら、どえらい空気になります。


家族でもそうだろう。子どもがいるなら、子どもは集団でいるのだが、自分を優先するようになるだろうし、奥さんは不機嫌になるだろう。


「家族や恋人といるときは愛を感じているのが自分という存在である。」こう定義してみたら、少しはましになるのかも。


こういう場合は、キーワードは”見る”ではなく”感じる”なのだろう。


”感じる”についても、考察していきたいな、今後。



愛してます。



以上
またね***

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