2012年7月4日水曜日

視点をずらす思考術(食べる読書106)




自らKYであることを告白した著者の文章を集めたつくりとなっている。


これまで私が出逢ったとらえ方とは違った視点でものごとを見ている。だから、視点をずらすというか、その対象がこれまでとは違った世界をもっていたのだと知ることになったといった感じだ。


自分はまだまだ物事に飛び込んでいないんだなと感じる反面、世の中の深さ、複雑さ、不条理、などなど、やれやれ、なかなか面白い世の中に生きているじゃないか、この俺は…、とワクワクもした。


この世が楽園じゃなくてよかったよ。ほんと。


だからといって地獄でもない。


地獄ほど単純でもないし、天国ほど退屈でもないとこが最高だな。


こんな最高の場で最高の存在になれるか。


と、こう言ったところで、最高だけが目指すべき目標でもないというとこがまた、味があるんだよ、この世は。


この生を楽しむにはどれだけ多くの視点をもてるかなんだろう。


この躰はどうしてみても、ひとつだ。しかし、視点はいかようにも変えられる。ひとつの事象でも、70億の人間がいる時点で、それだけの視点を同じ対象にたいして少なくとも持つことができる。


だからといって、視点集めだけの人生はつまらなすぎる。


視点は変わっても、変わらないのは私自身だ。この変わらない自分を変えるために、もっとよりよく、人生を満喫するために、視点を変えるのだろう。


なぜなら、人は選択できるのだ。あとは、どれだけ多くの選択肢をつくるかだ。


自由。


酸いも甘いも、泥水をすするのだって、赤っ恥をかくのだって。血の小便をするのだって、女の躰におぼれるのだって、共依存になるのだって、人に言えない変態行動をとるのだって。


自由だからだ。


だ・か・ら、自分が不幸なのは自由のせいなのだ。


あなたのせいじゃあない。


自由のせいだ。


自分の自堕落はすべて自由のせいにしちゃえ!というのも自由。


だから、私は自由が大好きです。


かけがえのない、永遠の愛をこの口で、この体で表現し、心から自由を愛し、抱きあい、ひとつになることで、私は自由を手にするのだ。私が自由で、自由が私。



以下抜粋

皮肉なものだ。天敵が存在しないことが逆に不安になるのだ。だから必死に探す。いなければ作り出す。仮想の大義を。


ファシズムという政治体制は、二十世紀以前には歴史に存在していない。ドイツとイタリア、そして日本という枢軸国を中心にファシズムが同時多発的に生まれた時期は、誕生したばかりの映画とラジオが広がり始めた1910~30年代にぴたりと符合する。


人は脅威に弱い。近代の戦争のほとんどは、侵略ではなく自衛の意識で始まっている。つまり過剰防衛。先制攻撃しなければ自分たちがやられるとの危機管理意識が、戦争勃発の際のもっとも重要な大義であり、戦争継続の燃料なのだ。


ただしメディアの嘘を見抜くことなど無理。たとえば映像の嘘は、一応は映像のプロである僕にもほとんど見抜けない。なぜなら表現とは、そもそもが嘘の要素が混在する領域なのだ。
だから僕のメディア・リテラシーの定義は、「メディアは前提としてフィクションであるということ」と「メディアは多面的な世界や現象への一つの視点に過ぎない」という二つを知ること。視点をずらすだけで新しい位相や局面が、断面や属性が、まるで万華鏡のように現れる。


法律は国民の行動を規律し、そして憲法は統治権力(国家)を規律する。つまり方向がまったく違う。法律の主体は国家や行政だけど、憲法の主体は主権者である国民一人ひとりだ。憲法が法律の上位に位置する理由はここにある。


皮肉な現象だけど、メディアが発達することで逆に様々な言葉が封印されてしまったことは事実だ。



つまり国家とは、あくまでも人為的に作られるもの。だからこれを成立させ持続させるためには、民族や宗教や言語など、構成員すべてに共通する属性を掲げることが最も手っ取り早い。でもこれも厳密にはフェイクだ。民族や宗教や言語が完璧に一枚岩の国家など存在しない。


現状の国際社会において、国家は大切な概念であり、基盤となる制度だ。だから丁重に扱うし尊重もする。でも愛することはない。愛してもいないのに愛するふりはできない。土地は愛す。季節や風土も愛す。ここに暮らす人たちも愛す。でも国家はインフラだから、僕にとって愛する対象とは少し違う。愛さない。尊重はするし丁重に取り扱うけれど、愛せと言われてもそのとおりにはできない。


DSM‐Ⅳについての功罪はいろいろ取り沙汰されているけれど、その最たるものは、精神という徹底して不定形で曖昧な領域に名称をつけたことだろう。本来は領域であるものが、与えられた名前によって限定された病理となった。限定された病理は類似するものを貪欲に咀嚼しながら膨張する。こうして病理は症状を激化させる。場合によっては、ないものまでが惹き起こされる。敗戦後の日本で心的外傷に苦しむ人は、実は決して少なくなかったはずだ。でも誰も名前を与えなかった。だから少なくとも感染はしなかった。


言い換えれば要因でしかない。駆動力は別にある。


凶暴さと殺戮は等号関係ではない。むしろ「優しさ」や「善意」が自衛の意識と融合しながら、歯止めの効かない殺戮への衝動に発展する場合が多いのだ。歴史を仔細に点検すれば、そんな事例を人類はずっと繰り返していることに誰もが気づくはずだ。


メディアの機能は、伝えることで罰することじゃない。後ろめたさや引け目を取り戻すためには、人の不幸を飯の種にする賤業なのだと思うくらいが、ちょうど良い。



作品を観ずして、「モラルとして取り上げない」との論理は、僕には正当な判断とは思えない。


いわばメディアは視点なのだ。撮ったり書いたりする主体がどの位置に立つかで、事象や人物像もまったく変わる。つまり客観性など幻想なのだ。


ただし自らの立ち位置はつねに相対的な座標でしかないとまずは自覚したうえで、可能なかぎりの客観性や公正さを模索するその行為を、僕は否定する気はない。それはジャーナリズムの限界であると同時に、あるべき姿だと思う。ところが組織に帰属すると、この前提が消える。自分はアプリオリに公正中立で客観的なのだと、いつのまにか思いこんでしまう。
この瞬間、正義が発動する。そもそもの座標軸が歪んでいるのだから畸形の正義だ。しかし当人はそれに気づかない。


第四の権力などの慣用句に、僕はどうしても馴染めない。なぜならばメディアは自らの力に無自覚だからだ。権力を権力たらしめるものは自覚だ。メディアにはそれがない。だからこそ無軌道になる。


事件や現象はそんな一面的なものじゃない。もっと多面的なはずだ。でもメディアは、その多面性からどうしても目をそらす。そしてその帰結として、事象や現象はかぎりなく単純化される。
こうして世界はメディアによって矮小化される。そしてこの矮小化された単純簡略な情報に馴れてしまった人たちは、複雑な論理を嫌うようになる。つまり胃袋が小さくなる。後はもう悪循環。


信仰のリスク。善意や優しさの危険性。危機管理意識が高揚することの副作用。オウムの事件はこの三つのテーゼを日本社会に呈示した。でもオウムへの憎悪と嫌悪に支配された社会は、このテーゼを咀嚼しようとはしなかった。メディアも見つめようとはしなかった。


あらゆる矛盾や葛藤をしっかりと内部に充填しているからこそ魚住は強い。それも剛直な強さではない。弱さの裏づけがある強さだ。優しさの担保がある残酷さと、倦怠の骨格を持つストイシズム。だから大胆でありながら臆病だ。そして絶対に忘れない。


メディアは人を加害する。これは避けられない。もちろん魚住はそのことをよく知っている。そしてまた、自分自身がその加害装置の一員であることも自覚している。その自己矛盾の渦中にいる。自覚しながら必死に吼える。歯噛みする。唸る。放った毒で自らも苦悶する。でもやめない。


戦争はすべて自存自衛なのだ。過剰な危機管理意識だから押さえが利かない。さらに宗教やイデオロギーなどの高揚が高邁な使命感となったとき、過剰な危機管理意識は無慈悲な先制攻撃へといつのまにか変質する。つまり当事者にとっては自衛だが、傍から見れば侵略なのだ。


人の一生は短い。限られたこの時間の中で、僕はできる限りはいろんな断面を見たい。聞きたいし知りたい。そんなことの繰り返しで、この世界は意外と捨てたものではなく、人って素敵な存在なのだと思うことができる。


以上
またね***



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