2012年8月3日金曜日

思考機械(食べる読書113)




人は”虚”によってしか現実を把握できない。その基本的なことを忘れ、論理のみが”実”を映すと考えるのはナンセンスであると主張している内容と見た。


おもしろかった。


「機械は思考できるか?」という疑問に対する著者の考えがこの本にある。


人間の内部で行われている知的活動、思考など。実際は、記憶メカニズムを外部に出したのが、人工知能という。


まあ、納得はする。



人工知能そのものや「機械は思考するか否か」にたいしては、そんなに興味はない。時代は変わり、その精度も質も変わっていくだろうが、どちらにしろ、機械が表現できるのは人間の一部のみである。だから、その一部をどう活かせば、人間はさらなる発展をするのかということに興味がある。


これまで、なかなかつかめなかった自己に眠る記憶装置。それを外部に出すことで、われわれは何を手に入れたのか。それらをうまく活用して、さらなる境地へといっているだろうか。


だが、そのことを知るにも、人間自身を知らないといけない。そうでないと、どこを・なにを目指すのが人間なのかがわからないからだ。


やはり、言葉かあ。このわれわれの最大の武器ともいえる、言葉の制約に縛られている。それが、人類全体の限界をつくっている。


決して、言葉だけで社会が成り立っているとは言えない。しかし、より多くの人、何度でも、といった再現性を満たすには、言葉の力を借りずにはいられない。


言葉では、汲み出せない部分。なぜイチローがヒットを量産できるのか。機械化できない職人技。さらには、まだ言葉を発せない赤ちゃんや幼児の感情や訴えなどなど…。


言葉に変わる思考ツールといえばいいだろうか。そんなものは存在するか?ということもあるが、人類はまだ”虚”を自由自在に操れるようにはなっていない。


だが、だからこその”虚”でもある。このパラドックス。この、あちらを立てればこちらが立たないという状況を打開できるのだろうか。


いろいろ興味は尽きないが、”虚”が次を拓くというのは確かだろう。


未解決の問題の”虚”の部分を少しずつ崩していけば、なにかしらの解決が見えてくるのかなあ。


なんか人類の営みを見るようだ。


以下抜粋

むしろ、虚構性をふくんだレトリックが、世界に意味を与え、世界を変容させる説得の言語装置としていかに機能しているかが肝心なのだ。



言語実践は原始人にとっても本当は事物に対する距離を前提としているのに、ことばが精神的外界、抽象過程としては考えられないのである。ことばが、肉体や自然の動力と混同されて、肉体や自然の宇宙的要素として参加するのだ。ことばと肉体的・自然的現実とのつながりが、抽象的もしくは慣習的ではなくて、現実的で物質的なのである。



高橋氏の意見では、物語とは、「幻想世界(仮の原因と結果の世界)の想定のもとに、解釈不能な事態を仮に解釈しておくという、家庭的解釈回路が成立したとき」に発生したという。


一つの集団=共同体のなかで、伝達され、再生される「解釈系としての物語」は、決して単なる<嘘>ではない。偽りでもない。むしろ、その集団が主体的に選びとった価値体系の表現なのである。



<モノ>としてのコトバを、レトリカルな<かたり>によって組織化・秩序化していったものが、どうやら我々の言語のようである。だが、<かたり>が<詐術・偽り・欺き>という負のニュアンスを持つことからも示唆されるように、様々の錯乱もまたここから生じるわけだ。



むしろコトバの本来の役割は、現実を錯視させ、真実を覆い隠すところにあるとさえ言えるのだ。
コトバは、一回性のある出来事に同一の名称をつけて、あたかも反復可能な事象のあらわれのように見せかける。さらに空疎な概念と情念の入りまじった、恐ろしい構造体を作りあげる。同種族殺しの特異な生物である人間は、永遠に気違いロンドを踊り続けねばならない。言語とは、実に奇怪な呪術装置なのである。


いうまでもなく役者の仕事とは、時空のうちに局限されている、自らの身体の可能性を解きはなつことである。



むしろ、ファジィな日常言語をいかに工学的に扱えばよいかが、取り組むべき問題ではないだろうか?日常言語であらわされる知識を、機械で形式的・合理的に処理するための理論を、研究すべきではないだろうか…?



ファジィ述語からあらゆるファジィネスを除去し、それを正確で厳密な述語に置き換えることができるという仮定のもとでのみ、パラドックスが生まれたのである。


日常言語=自然言語にひそむ<虚>の部分とは、排除すべきものというより、意味創成=解釈の自由をゆるす空間なのである。われわれは<虚>の部分を、自ら主体的に<実>の部分に変えていく。そういう主体的でダイナミックなプロセスこそ、<虚>のひらく豊かな可能性なのだ。


いかなる言語にも共通した、<概念=意味>の構造が存在し、その顕現として、多様な意味表現文があらわれるというものだ。



表層にあらわれる文の奥底に潜んでいるのは、「要素概念から組み立てられた、明確な原言語」ではない。深層意識がつくりあげる、多義的で、矛盾した、「言分けのダイナミック・スペース」なのである。発話文=テキストの奥には、それと様々な位相でかかわっている関連テキストの大群が、未だ不鮮明のままうごめいている。



<トポス>や、そこではたらく<レトリック>というものは、多様でダイナミックな世界において、いかにコトバを使っていけばよいかという議論なのだ。そこでは、論理的整合性ばかりが追及されるわけではない。


「人間は語ることができるより多くのことを知ることができる」



人間は思考するために、ものごとの意味をある程度、<固定化=形式化>せざるをえない。



新しい類似記憶の学習で古い記憶が損なわれるのを<逆向抑制>、古い類似記憶の影響で新しい記憶が妨げられるのを<順向抑制>とよぶが、いずれにしろ、<記憶>というものは相互干渉によって検索されにくくなり、結局は忘れられてしまうのだ。



コトバそのもののなかに、元来「形式化にむかうダイナミズム」が巣食っている。暗黙知の理論がしめすように、人間がものごとの<意味>を認知するときには常に<イマジネーション>が先行する。イマジネーションとは一種の<虚構=期待=思い込み>だから、コトバはかならずリアリティからずれてくる。



ブレを抑え込むメカニズムは、ロジック自体のうちにあるのではなく、学会アカデミズムの相互評価システムを中心とした、我々の社会的努力のなかに存在するのである。



中世までの美術作品には、ふつう署名はない。署名が大切になったのは、近代的な個我による創作が職人仕事に置きかわったルネサンス以降のことである。



人工知能は、分析的な近代知の産物ではあるが、<総合知・普遍知>という性格をも併せもっている。それは、知識の伝達・学習・構造化・組織化などにかかわる、一種のメタ知識(知識に関する知識)を扱うからである。



要するに<普遍言語運動>とは、コメニウスの私淑するアンドレーエのめざした「諸国民のあいだの神秘的な和睦」をもたらす手段だったのだ。



もともとファジィな命題を、形式的推論で組み合わせたところで、全体としての厳密性は保証されるわけではない。
けれども、この<二重構造>こそが、人工知能に<総合知>への道を拓くのである。
なぜなら自然言語は、人間が世界を全体的に把握するための融通無な柔構造をそなえているからだ。宇宙は時々刻々変容していくカオスティックな存在である。それを映すコトバの意味もつねにゆらいでいる。



本来ものごとの<意味>は、時空間に一回かぎり出現する。繰り返しのきかないものである。それは誰でも知っている。だがその<意味>を、人間はイマジネーションという<虚構システム=出来事に先行する仕掛け>を通してしか認識できないのだ。



古代から連綿とつたわる記憶術の究極的段階として、<頭脳=内部記憶システム>の一部をついに外に出した<外部記憶システム>こそ、人工知能コンピュータというしろものに他ならないのである。



人間が自己の内部メカニズムをコトバによって分析し、概念化していくというプロセスを続けるかぎり、その分析結果を機械装置として再現することは(原理的には)可能だからだ。人間は常にみずからの内に、未知のもの、既存の概念構造から新たにハミ出してくるものを見出すに違いない。
我々の<思考>とはそういうものである。そして、<機械>とはそういうものなのである。



現代において、宇宙の全体像をとらえるためには、<比喩=照応>による他はない。言うまでもなく、これは芸術家のまなざしである。<虚>によって<実>をうつす仕掛けである。




以上
またね***



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