2012年8月3日金曜日

モンタナ・ジョー(食べる読書112)




マフィアだったりギャングだったりには少なからず興味はある。これまで、数本の映画を観たし、アル・カポネの本も読んだことがある。


これまでマフィアなどは必要悪だと思っていた。それは、表の社会だけでは人間の生活をすべて満たせないためだと。もっとも有名で悪名高いアル・カポネが活躍したのは、禁酒法時代である。


表の社会がその悪をも少なからず飲み込んでいれば、裏社会はその分小さくなるのではないかと思っていた。



しかし、本書を読んで少し見方が変わった。



日系二世の男の物語。



生まれも育ちもアメリカで、心もアメリカ人のつもりだが、まわりからは「ジャップ」と馬鹿にされ、差別され、侮辱されてきた。第二次世界大戦中は排日運動が激しく、強制収容された。そして、日系人で構成された軍の部隊で戦場に行き、戦う。



そんな、排斥や迫害の中を飛び出し、自分の力で自由に生きるようとする。



つまり、ギャングを生み出す土壌がある。そんな時代がある。社会がある。そして、ジョーのような男が生まれていく。



いま現在、裏社会はどうなっているんだろう。規模は大きいのだろうか。


少なくとも日本は縮小しているのではないかと思う。そういう、やくざになる人が生まれる土壌は昔ほど減っていると感じるからだ。それは、いろいろな面での、改善が挙げられる。生活水準、差別、弊害、迫害などだ。


そう考えると、中国がいまは裏社会が大きくなる土壌にあるのではないかと思う。都会と田舎の経済格差が激しく、いまだに解消はされていないからだ。また、都会に流れてきても、オリンピック・万博の終った都会では、仕事はないだろう。


そんな現実への不満・怒り・または劣等感などをどう消化していくか。たいていの人は、ギャンブル・酒・麻薬・女などで気を紛らせ、自分をごまかすことで過ごしていくのだろう。そして、そういう人が増えるということは、その市場が大きくなるということで、その事業を扱う者が大きくなる。いわゆる裏組織だ。


需要と供給にとっては、裏も表もないのだ。このルールさえ押さえておけばどの世界でも勝てる。この本を読んで思ったことのひとつだ。


実際、ジョーは事業展開や、先を見通す眼も持っていた。だから、ファミリーのトップに成れた。



今後マフィアやギャングなどがいなくなることがあるのかどうかと問われれば、そういう社会を創ればいいと答えるしかないだろう。誰もが、生まれた時から十分な愛情を注がれ、精神的に健康で、幸せであるような社会をだ。


だが、そんなものは吐き気を催すほど、逆に気持ちが悪いと感じる人が多いだろう。そんなのは人間を侮辱しているとも感じる。


要は、どう自分と社会とを調和させるかだ。侮辱されたからといって殺人を犯す理由にはならないし、逆に偉くなって相手を見返す理由にもならない。そうなる理由は、ただ一つ、自分でそれを選んだから。別に、過去がどうだっていいんだ。


松下幸之助は、小学校しか卒業しなかったから人の話を聞けたし、何でも人に相談できたという。


別にジョーの選択が悪かったと言いたいのではない。その土壌があった。だが、それは単なる環境だけで済ませる問題ではないのではと思う。


裏社会を否定するつもりもないが、なぜ裏社会が存在するのかについては興味がある。必要だから裏社会はあるのだろう。それはニッチなマーケットかもしれないが、だ。必要なのに、なぜ、表へ出られないのか。そこが知りたい。


水滸伝の梁山泊は、宋という国にとって裏なのであろうか。おそらく違う。段階的な面でいえば、裏と見える段階もあるだろうが、目指すところは国であり、宋と並ぶことだ。つまり、表でありそれを創り出していっている。


一方、裏組織はどうであろうか。目指すところが見えない。麻薬・ギャンブル・売春などを生業としているのだろうが、それらに共通する面がある。


人間の弱さだ。


社会の中で満たされなかった愛情などを麻薬などで補う。いうなれば、表の取りこぼした自尊心といった何かしらの人間を保つものを補う受け皿といったところだろうか。つまり、ハイエナのような残り物をあさっている感じだ。表の市場の残り物を補っている。ほんの少しの残りかすだ。


なぜ、残りかすなのか。残りかすは残りかすだからだ。それらが未来をつくることはない。栄養もないアスファルトやコンクリートの壁でも咲く花のように、自ら生きるために養分のあるところまで自分を伸ばすようなものではないのだ。たとえ、真っ黒な雲に覆われ、光も届かないようなときでも、その雲の向こうに太陽があることを信じて自分を奮い立たせる人間ではないのだ。需要側も供給側も。どちらもただのマスターベーションをしているにすぎない。


市場が補わなかったからなんだというんだ。自分で補え。いやむしろ、自尊心などは自分自身で満たすものだ。



だが、どうしても、人間は、こんなにも弱いものなのだ。



その弱さを知る。そして、その弱さと興じる。戯れる。


弱さを楽しむ。この楽しさを知れば、ギャンブルや麻薬などは、見向きもしなくなると思うのだが、どうだろう。これほどの楽しみは、人生においてはないし、これが人生ともいえる部分だ。



”目的”、”目標”がそれを成しうる。


そういう意味で、目的や目標について語る人、または考える機会があれば、たとえ厳しい現状であっても、むやみに裏社会へは流れないだろう。



社会はそれ自身を維持するために存在している面がある。自分を脅かす存在は排除したい。だから、人間の弱さは裏で処理されるのではないか。


目的、目標があって初めて弱さがある。目的達成のために目標を立て、人は成長する。しかし、人の弱さはそれとは逆の働きをする。目標を達成したいけど…、しない。つまり、怠慢、無気力、責任転換、などなど。


社会は多くの人の成長のうえに成り立っている。先代から学び、次世代へ伝えていかなければいけない。その循環は、成長の力によってまわっている。


だから、社会は人の弱さを表に出さない。弱さを中心に社会はまわっていないからだ。成長を中心に回っている。それは、人の強さの表れだ。




裏社会を否定しているわけではない。ある意味、人間の弱さと調和しているのが裏社会なのだ。そういう意味で、愛でるように愛しい。大事な自分の一部なのだ。この社会で生きているうちに捨て去った自分の一部がそこにある。だから、人はマフィア映画やギャング映画などを見るのだろう。


かつての自分。


ジョーやその仲間たちにその一面を垣間見た気がする。


だが、俺は違う選択をするからよ、ジョー!



以下抜粋


思ったことは何事も怖がらずに最後までやり通すんだ。やり通せる強い男にならなければならない


自分が置かれた状況をいつ何時でも冷静に判断し、最良の選択を下す。そしてその状況の中で、常に最高のパフォーマンスを残すこと。それが可能だったのがジョーであり、そしてこの資質こそが、その後ジョーがマフィアの世界で生き抜いていく上でも最大の強みとなるのだった。



彼は人間が何に縛られ、なにに足元をすくわれるのかを知っていたのかもしれない。祖国の血、親兄妹の絆、頂点に立とうとする野望の行き着く果ての虚しさ。そんなものが、振り返る一瞬の隙も与えずに一人の人間の生命を奪うことを彼は熟知していた。事実、彼はそうやってのし上がってきたのだ。



すでに暴力で他を圧倒するマフィアの時代は終わった…。冷静にそう見極め、「企業体」としてのマフィアを存続させる才能の持ち主だけが、この世界で生き抜く権利を獲得できたのである。



一度抗争に火がついてしまえば、鎮火するまでには両者ともにそれなりの犠牲を払うことになる。それはマフィアの世界では避けられないことだ。



「エディ、男というものは、何事も一度決心したら最後までやり通さなければいけない。そして、決して死を恐れてはいけない。死を一瞬でも恐れたとき、もうそいつは男じゃないんだ」



エディは愛する人の死を心底恐れていた。



人間の欲望が最も強く表面に出ているのが、マフィアの世界というものだ。そしてマフィアの世界は互いの信頼で成り立っているといっていい。だが、それは裏返せば、信頼が不信に変わった瞬間に、すべてが驚くほどもろく崩れ去るということを意味している。昨日の友はあっけないほど簡単に今日の敵となる。そして自分が生き抜くためには、敵を殺すだけである。そのルールに則って生き抜き、そして同じそのルールに従って命を落としたのがマガディーノだった。



以上
またね***



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