2009年2月13日金曜日

心にきた言葉集24-2


カラマーゾフの兄弟 全4冊 (岩波文庫)


「子供の頼りなさが、この種の虐待者の心をそそるのだ。どこと言っていくところのない、だれと言って頼るもののない小さい子供の、天使のような信じやすい心、-これが虐待者の忌まわしい血潮を沸かすのだ。」

今日はまず、教育の前後で人はどう変わるかを考えたい。

財務諸表を例にしてみよう。簿記を勉強した人はそれを見て何を意味するかを理解する。が、簿記を学んでない人が同じ数字を見ても何のことかわからない。また、経営者(もちろん財務の知識はある)が見たら、さらに深い意味をその数字から読み取るだろう。

つまり、教育とは、ある事象に対する特定の考え方を身につけることと仮定できる。

その考え方は、今までの多くの情報の蓄積の上に立っている。人類の歴史がはじまって、何千年という長い時間の中で実証されてきたことの積み重ねが体系化され、今我々の目の前にある。人体の変化に対する膨大の情報から導き出されたこと、それが今日の医学としてさらなる情報を蓄えていっている。

教育で身につける考え方は、これまでの先人たちの残してくれたもの。それは、何百年・何千年という悠久の時間の中での人類の営みへの参加証である。先人の残したものを受け継ぎ、さらにそれを後世に伝えること。生きることの一つの側面。

だが、我々が先人たちを味方につけたとしても、我々が直面することが常に新しいことであることも事実だ。多くは過去の文献を参考にどうにか対処できるだろう。その問題を解決する考え方を過去から探せばいいのだ。

が、病気はどうだろう。過去から学ぶのは医者だけだろうか。医者が学ぶのは病気に対する対処法(考え方)だ。では、患者は?何を学ぶだろう?やはり、考え方ではないだろうか。たいていの人が、大病をした後に大きく考え方を変える。それは、自分自身に対する考え方だ。そう、だから、病気を克服する過程で人が受ける教育は、自分自身に対する新たな(それは自分をより豊かにする)考え方を身につけることだと言えるのではないか。

よって、医療は教育の一部だと考える。実際に学ぶのは患者、それを支えるのが医師や看護師。

そして、これまでの歴史の積み重ねによる考え方を身につけることが教育であり、生きることの一部分であるとするならば、人は生きていれば必ず全員同じ考え方を身につけることになるのではないか。


カラマーゾフの兄弟 全4冊 (岩波文庫)


なぜなら、これまで淘汰されずにいる過去の情報はすでにある種の普遍性があり、人が生きるということは、未来に対しても責任があるということであるから、未来に対して普遍性のあることをこの人生のうちにやっておく必要があると考えるからだ。つまり、全員が同じ過去の情報を持っており(その情報をどう解釈し、どう応用するかは人それぞれ)、未来に対して共通の責任を負っている。

こういう、人類の“生”という観点で見てみると、上の引用文の虐待者は、自ら人類の一員であることを放棄していることになる。こども(次世代)を、自分の心のはけ口にすることが未来に対する責任であるとは思わないからだ。我々は名もなき先輩たちの“生”の上に立っている。なら、我々も未来の人たちがたつ土台とならなければならない。なのに、自分が未来の上に立つとは。“生”への冒瀆だ。くやしい。未来に対して共通の役割があるのに、その、言ってみれば、仲間を汚すとは。それが悔しい。

でも、これを過去の情報として次に進めということなのだろう。

ちなみに、上の引用は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟 全4冊 (岩波文庫)
」から。

やりきれなさを胸に俺は俺の道を歩いていこう。未来を向いて歩いていこう。

以上
また、明日***

2009年2月11日水曜日

心にきた言葉集24-1


カラマーゾフの兄弟 全4冊 (岩波文庫)


「子供の頼りなさが、この種の虐待者の心をそそるのだ。どこと言っていくところのない、だれと言って頼るもののない小さな子供の、天使のような信じやすい心、-これが虐待者の忌まわしい血潮を沸かすのだ。」

くやしいな。

子供が素直なのは、将来大木となるためだ。そして、そのもとで新たな芽が育つ。そう信じる。

なのに、そこにつけいるとは…。

こういう意味でのレイプは現実に多くある。

くやしい。でもこれは現実。しっかり目を開け、受け止めないといけない。

これは現実だが、これが生きることだとは思わないし、全力で否定する。誰かの屍の上に立って生きていたいとは思わない。自分の生きてきた道に、振りかえれば多くの人の笑顔があるように生きたい。

が、世界では子供のそういう性質を消耗品のように扱っている状況もある。

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」という映画を見たことはあるだろうか。内戦状態の国。そこで武器を購入する資金繰りの一つとして、そこでとれるダイヤを先進国に売る。ダイヤが売れるとその分内戦は長引くだろうし、先進国の介入もあり、複雑化もするのだろう。細かい背景は描かれていないが、その映画で特に心を打たれたのが、子供の兵士だ。自分の派閥の増員のため子供をさらい、教育して兵士に仕立て上げる。子供は素直だからすぐに洗脳されて、人を殺すことにも早い段階で抵抗がなくなるのだ。見ていてつらかったな。子供は自分が何をしているか分からないんだよな。ただ、目の前にあるものに反応するだけ。

ヒトラーは「六歳まで子供を自分に預ければ、立派な兵士にできる」と言ったらしい。本当かどうかわからないが何かの本でそう書かれてあったのを覚えている。その本では、人の性格を決めるのは、主に生まれてから六歳くらいまでの間の環境や教育だと書いていた。

こういうことにはつい感情で反応してしまう。なかなか冷静に、考えられなくなるな。


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やっぱり教育だ。

その国が発展するかどうかは、その国の教育と医療を見ればわかるといわれる。私は、医療も教育の一部だと考える。病気になり、その他大勢と同じ生活ができなくなる。そんな状態で、自分はどう生きていくか。医療がしっかりしているというのは、医療技術だけが発達していることを指すのではないと思う。医療は人が病気になってもその人らしく生きるためのものだと考える。

人は単なる肉体的な生き物ではないと以前書いた。なら、医者は患者に医学(肉体に関する)の面からの情報を与えるだけの人ではないだろうか。その自分の体に対する新たな情報から今後どうするかは患者自身が決めることだ。が、ことはそう簡単にはいかない。冷静に自分の病気を認識し、病気と自分の人生との位置関係をしっかり把握できる人はまれであるように思う。だから、ついつい医療従事者に自分自身をも預けてしまうのではないだろうか。

明日、この医療と教育の関係についてさらに考え、人が生きることと教育についても考えていきたい。そして何らかの結論を導き出したい。


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以上
また、明日***

2009年2月10日火曜日

心にきた言葉集23

「君たちの着てるもの、髪の形、顔色、履いている靴、マナーなどすべて気にする。なぜわしが君たちや君たちの先輩を“セイクリッド・ウォーリアーズ”と名づけたと思う?それは君らのミッションが聖なるものであると同時に、いつ命を落としてもいいような肉体的な準備ができているはずだからだ。そのためには自分自身を清潔に保っておかねばならない。日本の昔の侍は毎日風呂に入り、自らの体を香で清めたという。なぜか?いつ死んでもいいためだ。国家のために働くというのは、そのくらいの覚悟が必要なんだ。」

人は単なる物質でもなければ、肉体でもない。キリストは死んでなお人々の心に明りをともし、ソクラテスは人々の心を感動で満たす。人が何かを成すのに物質という制約、肉体的縛りは障害とはならない。このことをこれまで多くの人がその人生で見せつけてくれた。ヘレンケラー、ベートーベンなどなど。

つまり、肉体を超えた目的があるのだ。上の引用はこのことを表しているように思う。

ではなぜ体をきれいに保つ必要があるのか?

まさに肉体を超えた目的そのものともとれる。が、その目的達成のために必要不可欠なことだと思う。

肉体を超えるとはまさに時空を超越。それは、場所・時を問わず人を魅了すること。その人がどこのだれであれ、その人の心の中に自分がいる状態。

人は多くの模倣から自分を創っていく。たとえ名もなき人のほんの些細な行動であっても、知らず知らずのうちに自分の行動に取り入れていることがある。たとえ一瞬目の片隅に移ったとしても、その人の身なりが素晴らしければ、人がどうあるべきかの幅が広がる。それは、今後の行動の指針を決める際の資料として取り入れられる。

これほど、国のために働く者にとっての国に対する貢献はないように思う。この国はこういう人が評価される国なんだと無言の教育をしてることになる。

だから、侍は、当時人口比率でいえば数パーセントにすぎなかったのだが、いまだに日本人の模範として人々から支持されている。そして、外国にもその生き方は評価されている。

そして、意見が自分の考えの意思表示であるのに対して、身なりや身のこなしというのはその人の生き方の意思表示なのだ。

上の引用文の意味が少しはわかったような気がする。だが、わかるということと自分のものにするということは違う。天と地ほどの差があるのかもしれない。が、その天と地の間を埋め尽くしているのは、すべて自分の意識だ。

「やるべきか、やらざるべきか。それが問題だ…。」なんつって(笑)。

さあ、目を開け!!しっかりと自分自身を見ろ!!何をなすべきかが見えてくるだろお!!!

以上
また、明日***

2009年2月8日日曜日

フルメタル・ジャケット

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」という映画を見た。

アメリカ映画。ベトナム戦争の映画だった。

そんなに多くはないが、今まで戦争映画を見てきた。

見てる最中は”これが戦争なんだ”と思う。でもすぐに、現実の世界に戻れる。

アメリカの戦争映画は、兵士の苦悩というか、戦争という非日常にどうにか適応しようとする姿を描き、そんな中でもやはり人間性は失ってないんだという構成になってるように感じる。自由や平等に対して、おもに、その人個人に焦点が当たってる。

けど、日本の戦争映画は、文化の違いだろうが、個人に焦点は当てるが、その個人にはその家族も含まれている。戦争に出た時だけがその人ではなく、平和なときには彼には恋人がいたり、家族がいたり、そんな中で一人の兵士として戦争に参加しているんだと。そのバックグラウンドも含めてその人なんだよと。だから、戦争という非日常で人間性を感じるのは、敵にも家族がいるということに考えが及んだとき。

こう考えると、兵士の教育の仕方もアメリカと日本では違うのではないだろうか。


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この映画では、お前らに人権はない、上司の命令は絶対だという印象を受けた。自由を重んじる国なら自由という人間的なものをそぎ落とせばいいということかな?だから、一人の命令に従い、いつ死ぬか分からない戦場でも戦える。戦場には民主主義は不可能。だが民主主義のための戦い。

一方日本は、先の大戦でもわかるように、天皇への忠誠を利用。自分も含めて最近は、天皇に対する想いが人によって違いすぎるが、当時はそうではなかったのだろう。あるいは、愛する家族のためにを合言葉に兵士は踏ん張ったんだろう。教官は、愛する家族・天皇への想いをえさにしてしごけばよかった?つまり、感情を利用。これは、心にきた言葉集9にも書いたが、感情だけで突っ走るのは危険。それは盲目を意味し、真実から遠ざかる。

で、ちょっとこの対比を違った角度から見てみる。考え方という点で見ると、アメリカ:理系、日本:文系のように感じる。まあ、どっちがいい、悪いではなく、ある程度大まかに自分の考え方の特徴を知ってれば、それを新たな考えの基準にして、自分の考えをチェックできるんじゃないか。自分の盲点を探すという目的で。

実際、日本はABCD包囲網によってアメリカと戦争せざるを得なくなったが、当時の日本の領土内に油田が眠っているかもという考えのもと調査はしなかったのかな。実際、東シナ海油田があるし。それに関しても、中国と戦わざるを得ないと思うが。それを発見できる能力がなかったのか、そんな余裕はなかったのかな。あるとこから調達するではなくて、うちの庭にはないのか?という発想はなかったのかな。理系なら、まず自分の領土・相手の領土の地理的特性を詳細に調べて、どこを攻めた方が効率的かを明確にしそう。ま、だから満州にこだわったんだとは思うけど…。

話はずれたが、戦争は非日常。普通の人間であってはいけない。人間性をなくせということ。

経済学では、戦争は“最終経済”だそうだ。つまり、生産がなく消耗だけ。

何事も基本が大事といわれる。実際真実だ。人が生きる上で何が基本かを考えることが大事と感じた。

やっぱり、「自分を大切に」に繋がっていくな。


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以上
また、明日***

2009年2月7日土曜日

心にきた言葉集22

「はじめに科学があるのではない。初めに正しさがあるのではない。科学に至る道、正しさに至る道を発見する知と行為の長い営み、一言でいえば“習慣”があるのだ。この歴史の中で蓄積された膨大な習慣を捨象して、一足とびに科学を、正しさを“実践”しようなどというのは、失敗と悲惨さを約束されているのである。」

うん。

ただ実った果実だけを手に入れるだけではダメ。その果実を創るのに多くの先人たちが創意工夫してその味、大きさにまで育てた。そしてそれを可能にするため多くの人がかかわっている。そのことを理解しないと、つい食品偽装に手を染め、失敗と悲惨を味わうことになる。

常に基本はマジョリティなんだと感ぜざるを得ない。常に大多数が正しいとは限らないが、時代は常に大多数なんだ。間違った判断もする。けど、大多数なんだ。これは大事だからそうなんだ。そういうルールというかどうしてもそうなってしまう。

新しい技術が開発されても、それが市民権を得るには長い時間がかかる。遺伝子組み換えは十年以上前から技術的に全然可能だが、いまだに食品の中では肩身が狭い。大多数に認められてないんだ。

私もこれまでの人生、大多数の人生ではなかった。現代の大多数の人生もそれまでの人々の習慣などによって、生活の変化などに影響を受けつつ出来上がってきたものだ。そこにはそれなりの理由がある。

それを一足とびに新しい人生を送ろうとしたところで失敗と悲惨が待ってるだけだ。

自分も混ざらないといけない。世間と混ざらないといけない。じゃないと、マジョリティの気持なんかわからない。それは失敗を意味する。

創業塾で日野先生はこう言ってた。
「アサヒはドライのコク・キレという価値をどう伝えたか?-いろんなとこで試飲させた。」
そしてこんなことも言っていた。
「いろんなことを地道にやっていけば成功する。」

ビジネスでもそうだ。ただ一足とびに声高に叫んだとこで誰も相手にしない。だから、マジョリティを利用・活用する。

それはどういうことか。アクションーリアクションサイクルの確立だと思う。いわゆるフィードバックできるかどうか。

アクション(自分):いろんなことをやる。リアクション(世間):自分の仕掛けたことに対する反応。アクション2(自分):リアクションを参考に、変化をつけて、再びアクション。リアクション2(世間):アクション2に対する反応。・・・。といった具合。

ま、てめえがほんとにやる気ならとっくにやってることだし当たり前のこと。

他のことに目がくらんでるようじゃ駄目だなと改めて感じる。

自分を大切に。いろいろやろう。ただあがくのではなく、自分の行動の結果に最後まで責任を持つように、一つ一つ、ゆっくりでもいいから、丁寧にやっていこう。

以上
笑顔でハッピーだあ!
また、明日***

2009年2月5日木曜日

心にきた言葉集21

「この猿芝居は何だ。…困難にぶつかったとき、ある者はとどまり、ある者は逃げ出す。もちろん、とどまる方が困難だ。チャーリーが今選んだのは、友人を売らないという、困難な道である。この選択は賞賛されて当然なのに、なぜチャーリーが罰を受けねばならないのか…。」

これは映画「セント・オブ・ウーマン 夢の香り [DVD]
」の中のセリフ。

実際にこの映画を見たわけではないが、ある本の中で紹介されていたので、メモった。

この映画のあらすじは忘れてしまったが、このセリフから人間の尊厳をうたった映画であるように感じる。

私の気に入っている映画である「カッコーの巣の上で」も人間の自由と尊厳をうたった映画である。

前回ブログにも書いたことと重なるかもしれないが、社会のシステムとして、社会が成り立つ要件として、その人の人間的な部分を評価の対象から外すということが全部ではないがいくらかある。

それが、人がその人らしく居ていいということができない、いわゆる生きづらさを感じさせるのではないか。

しかもこの問題。社会と個人の関係は今に始まった問題ではないように思う。孔子、ソクラテス、釈迦、キリストなど時空を超えて今なお人々が必要としているこれらの思想は、社会と個人のことに関する部分が大半だろう。これは、梅原猛さんが何かの本で語っていたことだが、哲学者ヤスパースの考えを紹介してた。

ヤスパースが言うには、人類は、農業革命がおこるまでは互いに助け合ってやっていた。が、農業革命で、貧富の差が起こる。これは、人の欲望を掻き立てた。そうなると、社会は長くは成り立たなくなる。自分の存在も長くは続かない。この矛盾。欲望は満たしたいが社会の中で生活したい。これを解消する論説を唱えるため世界各地で思想家が次々出てきた。それが約二千五百年前。中国では孔子。インドで釈迦。ギリシャでソクラテス。少し遅れてキリスト。こういった思想によって人々はどうにか自分の欲望と折り合いをつけてきた。

で、梅原さんが言うには、現在の状況は科学技術によってより欲望が刺激されるため、これらの思想だけではこの矛盾を乗り越えられなくなってるのではという。

確かこんな感じの内容だったように思う。う~んうろ覚えで確証はないが、少なくとも自分はこう理解している。

こう考えてみると、上に引用したチャーリーの人間としての行動。その背後にある思想というのは、キリストなどが唱えた道徳律であって、今の社会でより多くの人が生きるための思想とはいくらかずれがあるのではないかという可能性が出てくる。つまり、今の世の中では、チャーリーの行動は社会システムによって排除された人間として立派なものではなく、むしろ社会を崩壊させる危険性をはらんでいるものではないのかということだ。ま、極端にいえばそういうこと。なかなか心では納得できないけど・・・。


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じゃあ、新たな思想とはなんだよ。となるわけだが、まだちゃんとした形としては現れてないし、社会システムも以前のままでなかなか変化できてないのが現状。

で、一応頭の中で一つの案はある。ここ一年ぐらいで突然浮かんできたんだが、たぶんこれを一つ一つこなしていけば新しい何かが見えるかもと思う。

つまり、新しい人生の提案。人が持つ欲望、最も普遍的なのは認めてもらいたいということだろう。その人を認めるとはどういうことか。人にはいろいろな顔がある。夫として、父として、部長として、息子として、先輩として、などなど…。その役割を果たし、その役割と関わる別の役割の人もそれとしてかかわることの積み重ねだと思う。で、役割というのは時とともに、依存する社会システムの変化とともに変わる。

今の社会システムはというと、既存のものが機能しなくなってきたといわれはするが明確な方向性はいまだ示されてない状態。ここでみんなが納得する人生を打ち出せば、それが基準となり、新たな社会システムは構築されてはいかないだろうか。

うーん、これが理想だが、現実は逆なんだよな。人生(生き方)ありきではなく、社会システムありきなんだよな。

最近言われてるのがこれからはスモールビジネスが増えるという。このグローバルの時代、多くの人が自分サイズの事業をするという。その中には、もうほかに選択肢がなく自分で起業するしか食っていけないという人が増えてるらしい。

生き方の模索というよりは、ただただ反応してるだけなんだよな。

でも、少数だが自分の生き方を確立した人も確かにいるし、増えてもいる。今は情報社会。人の生き方も情報として価値はあるだろう。今までのように全員が同じ人生を歩んではいないのだから。だから、人生モデルの提案はビジネスになるんじゃないかと思う。そしてそれが新たな人間の尊厳へとつながるだろう。


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以上
今まで考えてきたことがどんどん出てきたように感じた。なぜかな。
また、明日***

2009年2月2日月曜日

es(エス)

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という映画を見た。ドイツ映画。

興味深かった。人間の性質というか、本質というものが何となくわかるような気がする。

これは一つの実験なんだが、希望者を募り、それを二つのグループに分ける。

一方は看守。もう一方は囚人。

ま、刑務所ごっこだな。

昔読んだ、ドストエフスキーの「死の家の記録」(刑務所の中での話)の中でこんな感じで書かれてた部分があった。

「一人の人間の心身に対する一方的な暴力を許すということは、その社会全体がたとえ人権を尊重してるとはいっても、その他大勢の人の人権が認められてても、それは一方的な暴力の上にしか成り立っていない。それは社会全体としての問題だ。」

みたいに書かれてたのを思い出す。

この映画はすごいな。

この実験のルールとして、看守の言うことに囚人は必ず従うというのがある。

まさにそれだ。はじめはみんなふざけてたが、このルールを忠実に守ろうとすると看守と囚人の権力争いが起こる。

外界とは隔離されたこの世界を支配するのは、看守は絶対というルール。だが、囚人にしてみれば、自己を否定されたように感じるんだろう。そして、看守の命令をしかとすると、今度は看守が自分を否定されたように感じる。

だが実際どちらも相手の人格を否定しているわけではない。ただルールを守っているだけ。はっきりいって、ルールと自分の人格との間には何の関係もない。だけど、勘違いする。そこがポイントかなと思う。

そして、看守は命令を守らせるため手荒い方法を使い、その刑務所内での発言力を手に入れる。こうなると看守の行動はエスカレートしていく。いかにも自分たちに力があるからこの囚人たちを自由にできると勘違いして。ただルールがそうなってるだけなのに。だから、この実験の主催者である教授たちにも手を下すようになる。

囚人たちはこの看守たちがすぐれてるから従っているわけではない。看守を見ているのではなく、ルールを見ている。だが、看守たちは、自分に従う囚人たちを見て、自分に力があるからだと思いこむ。

そんな中で、だれも人を見てはいない。自分自身をも人として見ていない。だから、囚人の中にはノイローゼになるものも出てくる。自分はこんなに相手にされない人間なのかと。めっちゃ落ち込みまくり。

そんな中、主人公(囚人役)は、最近出会った女性とのことを考えたり、積極的に他の囚人に話しかけるようにして、自分が人であることを失わないようにしてたように感じる。この中ではこんなざまだけど、自分たちにはほかの顔があるじゃん。みたいな。

結局狂気の中で実験は中止となるのだが、死人も出るし、教授も負傷。

厳しいな。まあ、世間も似たり寄ったりだろうけど。

う~ん。

てめえら、少しは自分を見つめろ!!!ふざけんな!!!たった一つのルールに踊らされてんじゃねえ!!!

ちょっとむかついた今日この頃でした。自分自身に対しても…。


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以上
また明日***

一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...