2009年2月10日火曜日

心にきた言葉集23

「君たちの着てるもの、髪の形、顔色、履いている靴、マナーなどすべて気にする。なぜわしが君たちや君たちの先輩を“セイクリッド・ウォーリアーズ”と名づけたと思う?それは君らのミッションが聖なるものであると同時に、いつ命を落としてもいいような肉体的な準備ができているはずだからだ。そのためには自分自身を清潔に保っておかねばならない。日本の昔の侍は毎日風呂に入り、自らの体を香で清めたという。なぜか?いつ死んでもいいためだ。国家のために働くというのは、そのくらいの覚悟が必要なんだ。」

人は単なる物質でもなければ、肉体でもない。キリストは死んでなお人々の心に明りをともし、ソクラテスは人々の心を感動で満たす。人が何かを成すのに物質という制約、肉体的縛りは障害とはならない。このことをこれまで多くの人がその人生で見せつけてくれた。ヘレンケラー、ベートーベンなどなど。

つまり、肉体を超えた目的があるのだ。上の引用はこのことを表しているように思う。

ではなぜ体をきれいに保つ必要があるのか?

まさに肉体を超えた目的そのものともとれる。が、その目的達成のために必要不可欠なことだと思う。

肉体を超えるとはまさに時空を超越。それは、場所・時を問わず人を魅了すること。その人がどこのだれであれ、その人の心の中に自分がいる状態。

人は多くの模倣から自分を創っていく。たとえ名もなき人のほんの些細な行動であっても、知らず知らずのうちに自分の行動に取り入れていることがある。たとえ一瞬目の片隅に移ったとしても、その人の身なりが素晴らしければ、人がどうあるべきかの幅が広がる。それは、今後の行動の指針を決める際の資料として取り入れられる。

これほど、国のために働く者にとっての国に対する貢献はないように思う。この国はこういう人が評価される国なんだと無言の教育をしてることになる。

だから、侍は、当時人口比率でいえば数パーセントにすぎなかったのだが、いまだに日本人の模範として人々から支持されている。そして、外国にもその生き方は評価されている。

そして、意見が自分の考えの意思表示であるのに対して、身なりや身のこなしというのはその人の生き方の意思表示なのだ。

上の引用文の意味が少しはわかったような気がする。だが、わかるということと自分のものにするということは違う。天と地ほどの差があるのかもしれない。が、その天と地の間を埋め尽くしているのは、すべて自分の意識だ。

「やるべきか、やらざるべきか。それが問題だ…。」なんつって(笑)。

さあ、目を開け!!しっかりと自分自身を見ろ!!何をなすべきかが見えてくるだろお!!!

以上
また、明日***

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