2011年10月13日木曜日

悪魔への挑戦状(食べる読書62-1)




人の人生は出会いで作られるといっても過言ではない。



幼少期からどんな人、モノ、コトとの出会いがあったか。



人生で遭遇するすべては出会いである。



そして、それが人生を左右する。



ここで、出会いといってもその深さがさまざまあることを経験から知る。



己の志へとつながる出会い。



その場しのぎの出会い。



などなど・・・




我々は日常生活の中でどのレベルの出会いが多いだろうか。




本書は私にとってとてもいい出会いであった。




それは、私の自分自身を含めた人を観る新たな一つの視点と出会えたからである。




それは私の価値観をも変えている。




この本を読んでそういう視点で日常のことを観るとなんだか楽になるのである。





著者は人を「自己価値観人間」と「自己無価値観人間」に分けて、両者を比較することで、現代人の心理を説明している。





「悪魔(サタン)への挑戦状、という題名の悪魔とは、決してオカルト的な意味ではなく、自分自身の存在に人間としての価値を確信出来ない心、つまり、自己無価値観、を悪魔と名付けました。そしてそれを退治してゆくという意味での挑戦であり、本書がその挑戦状です。」





と本書にあるように、自分の存在自体をそのまま認めることができない人が多いのではないか。だから、そのあまりにもはかなく脆い自分自身の存在を存在たらしめようとして、人は社会的価値観にしがみつく。そして、その社会的価値観を少しでも満たせなくなると、それがストレスとなっていろいろな症状と出る。または、その自分の存在を守るために様々な言動をするようになる。それらはすべて、己のはかなさを覆い隠すために行われるもの。





本書は、言動ではなく、その言動の動機にこそ目を向けるべきだと説く。なぜなら、「自己価値観人間」と「自己無価値観人間」の動機は異なるが、その結果の言動は同じということがある。その根本的なところに目を向けない限り「自己無価値観人間」から「自己価値観人間」へは変われない、と。





本書はなかなか読み進められなかった。その都度その都度、自分はどっちだろうと立ち止まって考えてしまうからである。




結論から言うと、「自己価値観人間」の場合もあれば「自己無価値観人間」の場合もある。そして、「自己無価値観人間」の場合その動機とその結果の言動から自分の本当の恐れ・弱さを白日の下に引きずり出される。これが、怖い。だから、読み進めるのは一種の闘いでもあった。




しかし、本書のこの考えに救われる。





「自己無価値観がもたげてくる自分に価値が無いからそれから脱する必要があると考えるのではなく、自己無価値観人間としての自分も、その存在にこそ価値があるとして、言うなれば「まあいいか」と思考の緊張により緊張している体から力を抜いてみるその行為が、自己無価値観人間にもその存在としての価値があるという認識の強化、すなわち自己価値観の強化につながってゆきます。」





そお~~~~~~~~~~~~~~~~なんだよお~~~~~~~~~~~~~なあ~~~~~~~~~~~~~(=^・・^=)





何自分の弱さに落ち込んでんねん。そんな弱さあってもなくてもセクシーなままの俺じゃねえかよお~♡





勉強になります<(_ _)>





このブログでも所々で書いたが、今の人は社会的価値に縛られすぎて本質を見れなくなってはいないかとひしひしと感じるのである。それは自分も含めてのことである。だからこそ、その無味乾燥した感覚がぬぐえない。そのつらさ、その無味乾燥を潤そうとして社会的価値へと向かうが、そこには何にも自分を潤すものはないのである。つらいことだが、そのゴールに自分を回復させるものはないのである。






では、どこに自分を潤すものがあるのか?もうこの時点で違うのである。どこかに”ある“ものではない。私自身が潤いであるし、潤いを生み出す者である。






外にはないんだ。





さあ、このことを自分の人格まで高める旅へと出発しようではないかあ~。





to be continued ・・・





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