2011年10月26日水曜日

奇跡の教室(食べる読書68)




「一流って何だ?」と思うことがある。


何をもって一流となるのか。


例えば、イチローは一流だろう。だが、野球に関して詳しくない私はイチローのどこが一流たるゆえんかはわからない。ただ打率がいいことくらいか、そのプロ意識を反映した生活の徹底ぶりなどが分かるだけだ。バッティングの技術については全く分からない。だが、バッターとしては一流なのだろう。


専門家と似ているが、一流というのは細かいところまで区別・分類が出来るのではないかと思う。


なので、一見何の違いもないただの内角ストレートもそれがどういう球なのか瞬時に区別でき、どういうふうに体重移動し、バットを振ればいいのか、その際の腕の角度なども区別できることをいうのではないか。


つまり、普通の人が見えないものも見えている。そのほんのささいな違いに大きな違いが込められていることを知っている。それが一流なのではないか、と今のところ結論づけている。



本書は橋本武先生(通称エチ先生)のユニークな授業を取り上げている。


それは、一冊の文庫本を三年間国語の教科書として勉強すること。


この授業はまさに一流の素質を育てる授業ではないかと感じた。


ただ字面だけを追うのではなく、その時代背景・文化・風俗などを含めた上で、その文章はどういうことを表そうとしているのか。


まさに行間を読む能力を育てる。


こう、一言で表すにはとても表せられないが、その奥深さ、その大事さ、を本書を読んで感じてほしい。


以下抜粋


押しつけじゃなくて、生徒が自分から興味を起こして入り込んでいくためには、“主人公になりきって読んでいくこと”がまず必要だと思っていました。



いま思うと、橋本先生からは”センス”を学んだんです。気付くセンスこそが国語力なんだよ、何歳になっても、受け取る感性があれば人生は楽しいんだよって



この人のようにしゃんと生きなくてはいけない、そんな大人への憧憬を最初に強く抱いたのが橋本先生です



自分のほうから気持ちを起こして求めていけば、古くからの遊びや慣習や地方の言い伝えや年中行事、つまり私たちの生活周辺のことは、結局、ぜんぶ国語の力になると思うんです



「大物一点豪華主義」というのは、本物=質の高いものを徹底的に吸収することが、その後のすべての基礎をつくることになるということです。



「味読」というのは、その人の世界に深くはいっていって、それを自分の世界にまで引きつけていく。読書自体が体験になる読み方です



生徒たちは、一つのものを長くやることによって、研究することはただ読むのではなく、細かな、見逃しそうな点に目をつけて、それを分析して調べてみることを理解していったのでしょう。



一つのものを深くまで研究し尽くしたこと、そのこと自体が自信になっていくんですよ。



やはり、大物と徹底的に馴染むということです。



最近の調査で、小学生の家庭で、たとえば“端午の節句に、ちまきを食べる”とか、“冬至の日に、ゆず湯に入る”といった日本の歳時記を実践している家庭の子は成績がいい、という結果が出ています。



国語はすべての教科の基本です。”学ぶ力の背骨”なんです



“奇跡”とは短時間の生成物ではない



最低でも半年、自分の興味を定点観測することで、自分の方向性や新しいテーマ、そして何より、いままで知らなかった自分の個性に出会えるはずです



好きなことに、本気で思いこんで脇目もふらずに取り組めば、きっとそこには道はできるということを君たちに教えてもらった気がします



情報の量、そして“時短”が重視される時代になっていた。
言葉からイメージを広げる機会は、日常から次第に減っていった。



遺された蔵書には、調べたこと、疑問、反論、自分がそこから新たに考えたことが余白にびっしりと書き込まれている。書物との対話を通じて自らの思想を深め、海外で、複眼を身につけていったのだ。



すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる



先を急ぐより、物事の本質を掘り下げて、その根本原理、その背景にある理由を探求することが大事なんだ



天安門のときは、中国側の証言者全員が取材拒否と言ったけれども、NGと言った理由を番組にすれば、別のすごい番組ができるんじゃないか、と思えたんですよ。



ある一つの言葉にこだわることで、その背後に大きく広がっている概念や感覚や考え方と、つながってくるわけですよね。



その言葉が、社会の現実の中でどのような位置にあるのか、どう絡んでいるのか、それが例えば歴史的にどういう背景を、あるいは意味を持っているのか、そういう全体的な構造の中で情報をじっくりと捉えていく。で、そこではじめて知識になってくると思うんですよね。



絵を鑑賞するのと同じような美しさを感じるというのが、学問の世界でも大切だと思うんです。



知識というものを理屈だけでなく、そういう美的感覚、感動までも伝えられるようなやり方ができればいいですね



重い課題などはやはり小さなことから順番にひも解いて、関連をつけながら、その問題の性格っていうのを理解していきますね。



10代の勉強を“孤独な闘い”で終わらせたくない



諸君の卒業とともに、一体多の関係は一対一の関係に切りかえることができる。いまでこそ大学入試の重圧下に物を見、物を考えざるを得ないので、自分と大学とをつなぐ一本の強靭な糸にしばられた視野の狭さは争われないであろう。広い野に進み出た時、また“灘”をふりかえってもらいたい。



教室での関係はすでに終わった。授業料でつながれていた束縛はなくなった。目に見えない校則でしばられていた枷は外された。嘗て教室で国語を手がかりとする教師と生徒であったという、精神的な連帯感だけとなった。これから、諸君と私との間に、新しい楽しい関係が生じなければならないと思う。是非、そうしてほしいと思う。



一緒に「銀の匙」を読んだ生徒がねえ、還暦過ぎても、みんな前を向いて歩いている。それが何より嬉しい。それを知ることができて、ほんとうによかったですわ。「結果」が出て、よかった



「銀の匙」の子どもたちの多くが、エチ先生の授業で身につけた力の凄みは、実社会に出て、30歳くらいになって気づいたという。



以上
またね***





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