2011年10月6日木曜日

プリンシプルのない日本(食べる読書61-2)




以下抜粋


然しどうして彼が自分の理屈にあんなに自信を持つのか判らぬほど、自分の感覚とその合理性に自信をもっている。





戦争前にこういう事業があったが、今はダメになっているからこれをなんとかしなくては、という議論もバカげている。どういう産業が適当な輸出産業かということは今から決まることで、戦前の実績は何等の指針にもならない。





六三制をやれといって勧告したアメリカ人の気持ちというものは、制度としていいからやりなさいと言ったに違いない。しかしこの場合、制度としていいのはいい、いつかはやりますが今はやれませんということを具体的に説明し得なかったということは、一つの非常な失敗だ。




自分が非常に自己陶酔をしていて、自分のその自己陶酔をそのまま読者に鵜呑みにさせるという技術を持っていること、その点だけは偉いものだ。





日本語というものは、僕はわからんけれでも、綾があるとか、含みとかいって、ものを表現するのに、ヨーロッパ式にいうと、正確度というものを非常に欠いている。






両方とも、あなたの思想はこうで、それを推してゆくとこうなるじゃないか、だからここで落ちつこう、ここまで認めるがここまでは譲れないというような議論はあり得ない。両方で別のことをいい合っている。だから論争になれば、感情的な喧嘩のほか何もない。お互い言いっ放しだもの。






国連側がどうの、自由国家群がどうのというが、これほど大きな経済問題を政治的というか外交的というか、こういう見地からのみで一蹴しているのでは国民は納得しない。




電源開発が目下の最大急務であることは論をまたないが、政府の方針か無方針かは知らないが、国家的に重要と思われる産業に見返資金其の他で国家が援助するのが、あまりに八方美人的であると思う。





私はパンパンを非難攻撃するのなら彼ら男性も排撃せよといいたい。・・・。彼女らを非難するべからずというのではない。非難はもっと冷静な立場に於てあるべしと思うだけである。






元来マッカーサー氏がたびたび言明していたように、追放は懲罰的な性質のものでなく、国民にこういう指導者群に二度とだまされるなと教えるためらしい。






昔の塾は塾生が塾長よりものを教わること以外に、塾長の私生活に日夜ふれてその影響を受けたことが甚大であったに違いない。






「政治は腹だ」といって自分の無能無策に気が付かない輩がいることである。我々国民に関する限り、政治家の「ハラ」なんかに関心も興味もない。政治家の持つ思想信念が何かということを知りたいと思うだけである。政治は「腹」だ「ハラ」だといっているうちに再建は遅れ、その腹芸による闇取引は横行し、しまいには腹を切っても申訳が立たないような事態に行き詰るのを憂うる丈けである。






私の知っている範囲に於ては、大体政治家なるものは、そんな悪党になり切れる位智慧のある御仁はいそうにもない様だ。




政府のいう保安隊の増強は、もっと金が要るということを意味するのは当然だが、この保安隊の増強をする余分の金を使ったときに、国家の経済にどんな影響が来るのか聞いて欲しいのだし、また政府は聞かれなくても率先して説明する義務があると思う。






官僚間の責任回避の本能に基づく不経済な公平主義のおかげで、輸入は入札制度のため、成る程輸入業者からも、その関係者からも文句は出る心配はない反面、国民は鳴物入りの宣伝のために現地で値を吊り上げられ、何時もも高い品物を買うことを余儀なくされている馬鹿な目を見る破目に陥れられている。







結局は抑えつけられることが判っていても事実を率直に言うだけのことは言う勇気はあるべしである。






どんな嫌なことでも、事実は事実として勇気を持って直視直面することだ。他人様にシワヨセをして澄ましていようなんていう様な安易感は通用しないということを強調したいだけだ。






政治に金が要るということは常識らしいが、政治に金が要らぬ様にしなければ疑獄問題は永久に跡を断たない。






闇金でやった行為である選挙は是認というか、何というか、ほったらかしておいて、その闇金をつくった行為だけ追求したというような結果に陥りはしないか。






GHQの行き方というか態度というか、その中に終始一貫してあったことは心理的には色々の施策の対象が実は日本および日本人でなくて、ワシントン政府および米本国であった。…、私の言わんとする処のものは、如何にすれば本国によく思われるかということに汲々としていたように思われる。






出世をする様な奴はどこの国でも心掛けが違うらしい。






我々がやった戦争中の他国の占領が、今に至るまでその国の人々のウラミの的になっているのを思うと、占領なんていうことは大体うまく行くべきすべもなく、筈もないことは判りきったことだ。





非常に進歩的の農村には、外来者でなくて、その村の地付の農民の中に非常に進歩的な人がいて、その村でその人が実地にやってみせて外の人を引きずっていることの例は全国いたるところにある。





政争をやるのは政治家さんの勝手だとも云えるが、政争のトバッチリを食って国民の税金が死金になる可能性を増してやるなんていうのは、国民として迷惑至極な話である。






この大和民族はどうも政治の論争があっという間に感情問題に急進展して、ヒステリーの女そっちのけの坊主が憎けりゃケサまでにくい論法に行くことがあまりにも多い様に思う。





大体屢いうことだが、総理の後継者なんていうものを心配するのは不必要千万なことで、これは国民が勝手に決めることで、昔の組閣の大命降下なんていった時と世の中が一変しているのだ。





現在のように経済再建の真最中で、殊にその再建すらあまり希望通りいっているとはいえない今日、白紙から出直すなんていう様なノンビリした時間があるとは思えない。







韓信またくぐり{志ある者は侮辱にもよく堪えるというたとえ}的に自己の感情を抑えて、日本の対外信用のためまた悪い前例を残さぬために、ひいては国民のために政府の強圧に屈すべきではない。






大体私なんかの考え方から云うと、大部分の会社が四苦八苦して倒産一歩手前の世の中で、よくもまあ、政権をどうしろとかこうしろとかいう余裕があるものだと驚くばかりである。







機構など、つまらぬきめを超越するのがいわゆる実力者というものかも知れぬ。






戦前は軍部が横暴だったからだと澄ましてしていても、その横暴に対する反抗を如何にして表したかと聞かれたら、ぐっとつまるにきまっている。






この民主主義の世の中では財界人であろうが誰であろうが、みんな政治に対して発言権を持っている筈だ。政治に対して意見をいう権利があるのだ。意見を云って何が悪い。政治に干渉するのはけしからんと怒るのは、戦前軍部が統帥権に干渉したと怒ったのと少々は似ていないか。






新憲法の精神というか、それを貫いているプリンシプルは何かということを、考えてみた人は何人いるだろうか。







米国側から考えると、不平等であるとの何の意志表示もなかった協定が改定時になって急に不平等となるべきすべもないのだから、納得はしないだろう。プリンシプルを考えたら、当然その時に不平等であるとの発言がなされて然るべきであった。







私は日本の軍縮委員会参加に繁多死しているのではない。私はその参加にいたるまでの手続きの不手際を責めたいのである。参加しろといわれたときになぜ、日本は軍備はないから軍縮の会議に参加する資格はないと断らないのか。






歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大なる罪悪であると考える。








反対党がその法案をそんなに嫌なのなら、この次の総選挙に勝って絶対多数を制して自民党内閣をたたきつぶしてその法律を廃止すればよいのです。いま反対党のあなた方には、政府の提出する法案を阻止する権限は国民から与えられていないのです。






昔は盛んに、カントは、ゲエテは、と言ったもんだ。それじゃお前はなんだって訊くと、何にも持ってないんだ。







妥協は妥協でいいよ。だけども、ほんとの妥協ということは、原則がハッキリしている所に妥協ということが出て来るんでね。日本人のは妥協じゃないんだ。単なる頬かぶりですよ。原則をほったらかしといて「まあまあ」で丸く納めようとする。納まってやしないんだ。ただ問題をさきへやっとこうというわけだ。臭い物には蓋をしろというんだよ。







しかしほんとに深刻な金詰りは大企業だと思うね。ところが、中小企業者は自分が主人で全責任を負ってるから、ギャアギャア言うけど、大企業は頬かぶりでゆこうとする。






人格者がいけないっていうんじゃないんだ。文部大臣というと、すぐ教育者を頭に考えちゃうけど、教育行政と教育とは全然違うものだというんだ。






議論したければ議論すればいいんだ。ところが、痛烈なことを言うと恨むんだね。人の前で恥をかかしたって、面子面子っていうけど、八月十五日以来、日本人に面子なんてあるかっていうんだ。







俗人は、自分の卑しさを照し出すような人物の前に出ると、恥ずかしさからか、相手を憎むものである。




以上
またね***





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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...