2011年10月14日金曜日

悪魔への挑戦状(食べる読書62-2)





以下抜粋


今まで人間の様々な悩み対して、様々な分析や試みがなされて来ました。しかしどれもが表面的、部分的な現象を取り上げて、根本的な原因やそれに対する解決方法を示すに至っていない様に思われてなりません。




社会的価値は人間社会を豊かにする為、そして生きてゆく上で当然必要なものですが、人間の価値の尺度にする為のものではありません。




たとえば社会的地位が上だから人間としての価値がある、お金持ちだから人間としての価値があるなどと、そもそもそのような社会的価値イコール人間の価値と考える人こそが、その社会的価値を追い求めて、日々過大なストレスを抱えて生きている人ではないでしょうか。





例えば高級品を身につける事で、自分が人間として価値があると思いこもうとする動機においては、そのもののランクが重要なだけです。高級品であるという社会的価値を自分の人間の価値に絡めているのです。これに対して人間の価値と物事の価値を分けて考える動機においては、単に高級品だからという理由ではなく、なぜ高級品なのか、そのもの自体の価値を見い出し、大切に扱う事でその価値をより高めてゆく事が出来ます。




自分の存在に無限の価値を確信出来る人間こそが、自分の周りの様々な事に価値を見い出し、心から幸せを感じる事が出来るのではないでしょうか。




行為を憎んでもその人を憎むことのない人かどうかで、その人が本当に優しい人かどうかの見分けがつくものです。





自己無価値観人間の場合は、心から人を許すという事がなかなか出来ません。それは、許す前は、自分より社会的価値観に照らして劣る相手だったのが許す事によって、その対象が、自分と同じ価値となり、優越感によって自分の自己無価値観を癒す事が出来なくなるからです。






自己無価値観人間の場合はどうかというと、目標への悲壮感は無く、むしろ困難な中にも楽しさを感じる余裕があります。そして、何事にも物事そのものへの価値を見い出そうとする価値観の創出が、自分の存在の価値の確信を更に深めてゆきます。





そもそも正しいという概念自体、社会的秩序と照らしてという意味である場合と、自分の価値観に照らしてという場合があるのですが、自己価値観人間の場合は、自分の人間としての価値をその存在により無限に感じ取る事が出来ますから、正しい事という意味を社会的秩序に照らして考えるよりも自分が本当にそう思う事、すなわち自分の価値観に照らして考えます。そして、他人の価値観に対しても自分の価値観にこだわらずにそれを認める余裕があります。






自己無価値観人間の場合、しばしば、大志や大きな夢が、自己無価値観ゆえの、こうでなければ自分には人間としての価値がないという、いわゆる誇大妄想となる場合があります。






自己無価値観人間は、意識的行動を表面に出す割合が少ないほど、無意識の動機によって、自分自身や周囲の人の価値を尊重できない行動をどり、自分自身と周囲に不快感を与え、不幸をまき散らしながら生きているという事が言えます。






騒がない子は良い子で騒ぐ子は悪い子、と一見正しい様に見えて実はとんでもない誤りである躾をされた子は、これこれこうでなければ自分には人間としての価値が無い、あるいはこれこれこうでない人は人間としての価値が無いというふうに、人間の価値を社会的価値に依存する様になり、その結果、特定の場面で表面的には社会性がある様に見えても、実は内面に強い抑圧や冷酷さを抱えてゆくという事になります。





その行為や言動をいちいち真に受けるのではなく、自己無価値観から来る言動として、冷静に対処する事が、最善の対処法と言えるでしょう。




本当に愛情を必要としているのは、好かれている人ではなく、真の愛情を受けずに育ったがゆえにそうなった、嫌われている人であるという事に気付くべきです。




自己無価値観人間、つまり人間の価値を社会的価値に依存する人を、哀れな人、と割り切りましょう。





自己無価値観人間の場合は、自分の存在に人間としての価値を確信出来ず、社会的価値イコール自分の人間としての価値として、自分の無価値観を癒そうとしている以上、自分に関わる様々な出来事に対して、その結果と、自分の人間としての価値が密接に関わっており、この為、自己無価値観により、元々僅かしかない自分の人間としての価値を必死に守る為に、自分に関わる物事の結果は、絶対に社会的に価値のあるものとしなければならず、しかし結果など出てみなければ分かるはずはなく、結果が出せるかどうかという動機をベースに、不安となるのです。





一般的に、感性という点では、自己価値観人間は、自己無価値観人間にかないません。それは、とことんまで、自分の感じ方を追求するがゆえの感性の鋭さと言えるでしょう。まあいいかと物事の価値を見い出し、すぐに受け入れてしまう自己価値観人間では、現象を繊細にとらえたりという事がなかなか出来ません。





要は、その表面的行動の社会的意味合いではなく、その動機の方向性、つまり思考のベクトルがどちらを向いているかが重要なのであって、例えば内向的な人が外交的な人になりたいと、表面的行動だけを変えても、本質的には内向的な人が外交的になれるハズがありません。





そもそも自分の存在に価値を認識できない以上、社会的価値を自分の人間としての価値として追い求める訳ですが、世の中そうそう思い通りにゆくものではなく、何かささいな事につまずいただけで、すぐに思い悩み、傷付き、そして、自分や他人を責めるという行為に出ます。





自己無価値観人間は、情緒未成熟の親の対人緊張による抱かれた時の緊張感や、甘えが許されない居心地の悪さや恐怖感、親の気分次第でコロコロ変わる自分への接し方への混乱などにより、自分はここに居てはいけないのではないかという疑問を無意識のうちに芽生えさせます。





その人がその人自身の苦痛から逃れる為には、自分が自己無価値観人間、すなわち良い人でも何でもなく、子供以下の情緒未成熟人間であることを認めた上で、自己価値観人間への脱皮を図ることが必要なのです。





悪い事は悪い事として、しかって矯正するのはもちろんの事で、また、良い事は良い事としてほめてあげる事はもちろんの事ですが、その親の態度の中に、その動機として良いことをする子は人間としての価値があり、悪い事をする子は人間としての価値が無いという無意識のメッセージが込められている場合と、物事の価値と人間の価値を区別して、全ての人間にはその存在自体に無限の価値があるというメッセージが込められている場合とでは、子供はその動機を敏感に読みとって、全く違う価値観を形成してゆく事になります。





自己無価値観人間は、自己無価値観を癒す為にとる行動を重ねれば重ねるほど、その自己無価値観を強固なものとしてゆくのです。又、逆に、自己価値観人間は、自己価値観を認識する行動を重ねれば重ねるほど、自己価値観を強固なものとしてゆきます。






過保護とは、自分の気分によって偽の愛情を与える事で、つまり自分の気に入らない反応には過剰に反応するという態度を秘めています。子供が自分の気に入る反応を示そうが気に入らない反応を示そうが、変わりなく愛するのが真の愛情です。







結果に対してそれを達成出来た時に誉めるというやり方の問題点は、その動機に目が向けられていない所にあります。






躾、の本来の意味として、人間はそもそもそこに存在する事自体に価値がある、だから、その様に接する為の方法や知恵、としての躾けであるべきです。その為には、行為そのものの意味ではなく、動機こそに目を向ける必要があります。






なぜ自己無価値観人間の親は、時として自分の子供に対してその様な要求をしてしまうのでしょうか。それは、子供であれ、相手が不機嫌でいられると親としての自分の人間としての価値を否定された事につながるからです。相手の態度で自分の人間としての価値観がゆらぐ自己価値観人間としての特徴と言えるでしょう。







最初は、相反する動機がもたげて来るでしょう、しかしその間違った動機で行動しない事、そして日常のあらゆる物事に対して正しい動機で行動する事、それを重ねる事、そしてそれによる安心感を体感する事が、自己無価値観人間からの脱出の唯一の方法です。




to be continued ・・・



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