2011年10月15日土曜日

悪魔への挑戦状(食べる読書62-3)





普通の付き合いにおいて、自分が相手から嫌われているのに相手を好きというケースはあまりないという事が言えるのです。どちらかが、好き嫌いのイニシアティブすなわち主導権を持って、そのお互いの感情を増幅させてゆくという事が言えます。相手の反応は自分の鏡、と言われるゆえんは、すなわち自分の行動がそのまま跳ね返ってきているという事です。




自己価値観人間の場合、相手を価値あるものとして、簡単に嫌ったりはしませんが、好きとか嫌いとか言われる事に自分の価値を依存していないので、自分の合わない事に対して、きっぱりと断れる主体性が存在します。片想いなどという場合でも、自分と相手を価値あるものとして扱うからこそ、自分に合わない相手を、拒絶する事で、お互いの価値を尊重しようとするのです。






自分よりもある部分において社会的価値に劣る人に対して、自分の社会的価値と比較して、自分の無価値観を癒そうとするという思考のベクトルを自分に向けるのではなく、その相手に向ける事、すなわちその相手の気持ちを理解しようとする事とそれに基く行動こそが、自己価値観人間の思考の方向性と行動です。






人間はそこに存在する事自体に無限の価値がある以上、自分にも無限の価値があるから相手は自分を価値ある存在として接するべきだという考え方は、単なる甘えであって、自分を価値ある存在として接しようがそうでなかろうが、相手には人間としての無限の価値があるという点を理解する必要があります。






不安や葛藤やその他様々な精神的肉体的不快感を抱えている自分は、それらを抱えていても、その存在自体に無限の価値がある、だからそれらを抱えていても人間として無限の価値があると、地獄の不快感を抱えながら生きて行く決心と、そういう不快感を抱える自分を受け入れる事が、その結果として必要以上の不快感を押さえ、本来の必要な本能的レベルへと戻す事が出来るのです。






緊張なら緊張、不安なら不安に抵抗しなければ、過去の嫌な出来事に目を向けない新たな行動により過去の嫌な出来事を思い出さずに済みその呪縛から脱する事が出来るがごとく、結局は自己無価値観から来る不快感や弊害に影響されない人生を送る事が出来る様になります。






人間の真の価値を理解した上で、その動機を元にした行為を重ねる事で、ますますその確信を深めてゆきます。そして、先の矛盾に対して、行き辛さというそれ自体が、自分や他人を守る為に本来人間が持ち合わせている必要な要素であると気づき、それを消す事に目を向ける事をやめるのがこの最後の段階です。そして生き辛さをありのままに受け入れられる様になります。






人それぞれその生き方は様々ですが、同じ事をしている人の中でも、尊敬したくなる人、輝いている人、清々しい人などには何か共通しているものを感じます。それは一様に、その人を接したその行動の中に、その人からこちら向きの愛情が伝わってくるという事が言える様に思います。






歴史と共に文明が発達し、我々にとって便利な物や魅力的な物などが溢れ出し、また、支配者層が人々を支配する為に、社会の秩序としての序列が形成されて来ました。これに伴い、良い物、良い事、偉い人など、いわゆる社会的価値に基づく価値観が形成されて来ました。







いじめられて自殺する子の中に自己無価値観人間たる親によって自己無価値観を形成された子が多いという事も言えるのではないでしょうか。いじめられる自分についての人間としての価値を喪失し、条件付きの偽の愛情によって作られた自己無価値観人間であるがゆえに、いじめに抵抗出来ず、そもそも僅かしかない自分の存在への価値の確信を失い死を選ぶという事ではないかと思われるのです。






世の中お金持ちの家の子もいれば貧乏な家の子もいます。それでも人間としての価値は同じであると教える事が真の平等意識を育てる事で、社会的価値を同じにして、それを平等とする事は、この例に限らず、単なる自己無価値観人間の足の引っ張り合いでしかありません。






偽の愛情、すなわちあなたはこうでなければ人間としての価値が無いという確信を植え付けられたが故に、経済発展、豊かさという社会的価値に対して、こうでなければならないと、がむしゃらに取り組んだ結果としての経済復興、経済発展ではないでしょうか。






純粋に価値ある対象として人を思いやってという人の他に、相手への配慮など無く、ただ単に正論を振りかざす人などを見ると、社会的に価値がある行為をすることをアピールしている人が、自分は、価値ある事をする価値ある人であるという意味でアピールし、自分の自己無価値観を癒そうとしているのではないかと思われる時があります。






自己無価値観人間は、人間の基本的欲求である存在の価値を認められたいという欲求を自己補給出来ずに、社会的価値においてそれを自分の人間としての価値を絡めて得ようとする結果、そんなに何もかも優れた人間や何もかもうまくゆく人間などいようはずがなく、自己無価値観をより深めてゆき、その結果、認められたい、適合出来ない、達成出来ないなどなどありとあらゆるストレスを抱え込み、何かに依存して現状から逃避しなければ耐えられない状況にあるのです。





現実を直視出来ないとは、すなわち現実に対して、自分の存在に確固たる価値を認識出来ないでいる事に他なりません。タバコには、唇という敏感な部分で刺激を得てその行為により無意識に母親の保護を求めて幼児返りすると同時に、ニコチンにより覚醒作用も手伝って、現実から逃避するという効果がある様に思えます。






自己無価値観ゆえに、自分は平凡な一人の人間であるという事を認められずに、社会的価値の達成を約束された特別な人間であると思い込む事で、自己無価値観を癒そうとし、努力や根拠の伴わない、運まかせの様な人生を送る人なども、ギャンブル狂と言えなくありません。







過剰な自己防衛の必要性とはすなわち自己無価値観から来る動機に他なりません。自分の存在に確固たる価値を認識出来ないがゆえの、自分の人間としての価値に対する必死の防衛なのです。





言論の自由とは、自分にとってどういう相手であれ価値ある存在であると尊重し、初めて成り立つものでしょう。





規律の為の規律ではなく、自分と他人を価値ある存在として大切にする為の規律として、真の愛情を持って厳しく接してゆく事、これしかないと思います。






かつては、いわゆる社会的規範によって、それを守る人イコール価値のある人とのこれも自己無価値観に基く一定の抑止力がありましたが、これも元々どんな相手をも価値ある存在として認識するという自己価値観に基かないがゆえに、偽の平等社会による社会的規範の崩壊により、自己無価値観ゆえの冷酷さが表に現れて来たと言えるのではないでしょうか。






ぬいぐるみやキャラクターグッズや、更には異論があるのは承知の上で言えば、宗教的な像に至るまで、実際の人ではない、いわゆる偶像を可愛がったり、自分を愛してくれる対象としてすがったりする事は、一時的に心を癒してくれる事はあっても自己無価値観から来る様々な弊害への根本的な解決につながらない事は当たり前の事です。正しい動機により行動する事が唯一の解決方法である事は、今更言うまでもありません。






人間社会を学校に例えた時の勉強とは、すなわち身につけるものが、自己価値観であり、それを行動というトレーニングによって、強化する事ではないでしょうか。





人間には感情が存在する事から、機械でないと結論づければ、人生とは、人間社会での寿命のみでないという事が理論として成り立つのです。そういった意味では、現世主義といわれる、社会的価値観に執着した、いわゆる自己無価値観的生き方がいかに意味の無いものかが段々分かって来ます。






多くの人達が様々な悩みを抱えて生きる現代社会。大体、悩みやストレスの大半は現代の様々な社会的価値観に照らして、それを絶対視し、それに適合出来ない事と自分自身の人間としての価値を絡めて考えるところから来るものでしょう。



以上抜粋





抜粋多すぎだが、新たな価値観に慣れるには時間とエネルギーが要る。なので、出来るだけ本書の内容で大事と思ったところは削らなかった。困った時や悩んだ時などこれを見返します。




以上
またね***




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