2012年2月10日金曜日

運命を拓く(食べる読書78-1)




以下抜粋


行きぬくために生命は、強い力とすばらしい智恵を保有している。
生命は、力と智恵を行使して、絶妙な創造活動をする。


悟りというのは、自分の心が真理を感じたときの心の状態をいうのである。


”アイディア”というのは、”気”の動く場合における、現象事実に対する名詞である。


「人間の心で行う思考は、人生の一切を創る」


人間の心が、病や運命を気にしないという積極的状態であるとき、すなわち心が無念無想に近い状態であれば、宇宙に隈なく遍満存在している、幽玄微妙な気の持つ霊智を受け入れる分量が多くなるが、肉体や、肉体から発生する本能とか感覚に心が縛られて、心の融通性の極めて狭い消極的な心になると、その受け入れ態勢を妨害することになり、この尊い力からも、働きも十分に生命の中に受け入れることができない。事実をもって、これを自分の体で経験したのである。


所詮、人生は心一つの置きどころ。


何事においても、そのときの心の態度が、成功を生み、また失敗にも追いやる。ちょっとしたことでも例外ではない。紙に一本の線を引くにも、丸を画くにも、心の在り方いかんですぐ乱れがきてしまうのである。


「悟れば、一瞬にして幸来る」


人間はそれ自身を宇宙の創造を司る偉大な力を持つ宇宙霊と自由に交流、結合し得る資格をもっている。資格があるから、同時にこれと共同活動を行わせることもできるのは当然のことであり、そうすることによって万事を想うままに成就できるのである。


「人間の背後には、人間が何を欲するにも、また何を人知れず思うにも、その一切を現実の形として現わそうと待ち構えている宇宙霊が控えている」


考えて、考えて、考えつくまで半年かかった。しかし考えていくうちにだんだん魂の夜明けがきた。そしてようやく、宇宙の根本主体の持っている働きの方から人間を考えてみようという考え方が出てきたのである。


「ぜいたくをしにきたのでもないし、病をわずらうために出てきたのでもない。何か人間以外にできないことを人間にさせるために、他の生物にない力を与えられている。その力があるから万物の霊長なのだなあ」


自分というものは、ひとりでいるのではない。常に宇宙霊というものに包まれていて、しかも宇宙霊は全知全能の力をもっている。それと結び付いている生命を自分が持っているのである。


「普通の人間のことをいっているんじゃない!俺のところに来てこういうふうに毎日毎日真理を探究している以上は普通の人間じゃないんだ!まだ自分は普通の人間だと思っているのか、お前は!普通の人間はお前のように毎日毎日真理と取り組んで貴重な時間を過ごしちゃいない。毎日毎日くだらない人事、世事にせわしなく働き、やたらとその言葉を汚し、実に、自分ならびに他人をも悪くするような言葉のみを終始使っているのだ。それは凡人のいうことだ。真理を探究している人間がそういう考え方を持つことは、非常に愧ずかしいことで、結局、極端に自己を侮辱していることになるじゃないか!・・・」


いろんな理屈をさかんにいって、卑近な学問を研究したために、普通の人よりも人生に関する理屈をべらべらいうだけで、いっているそばから、自分のいっている理屈に自分が苦しめられていた、ということを考えてみると、実際自分ながら、あんまり利口じゃないなあと思った。


あなたがたが四六時中使っている言葉…。
自分の言葉に自分が尊敬を感じるような言葉をいっているか!


潜在意識の状態が実在意識の状態に同化してくるのである。そして、その結果が気高い言葉、神聖な言葉であり、いい換えれば、積極的な言葉を表現した場合には、生命の一切が極めて状態のよい事実になって現われてくる。けれども、万が一、消極的な、怒り、悲しみ、悶え、迷い、そして悩みが遠慮なく口から出されるという場合には、もう恐ろしい結果を神経系統の生活機能に与えてしまうのである。


何気なく出てくる言葉というものはあるものではない。どんな人の言葉ですら、その言葉になる前には、観念が言葉を創るのだから。


「さあ心配するな!俺が来たからもう大丈夫だから、いいか!俺が駄目だと言ったら覚悟しろ。俺が駄目だといわなければ大丈夫だから!」


絶対的なものは、人々の心でのみ創られる。


よく考えてみよう。自分を貧弱な哀れな人間と思う考え方ほど、およそ値打ちがなく意味のない人生はないのだということを。


宇宙真理がいったのならともかく、何とまあ、貴重な自分の人生を、他人にかきまわされ、自分自身の自由を拘束されて活きているのだ。


腹の立つことがあろうと、悲しいことがあろうと、瞬間に心から外してしまえばいいんだ。


必要な物だけを取り入れればよいものを、不必要なものを取り入れているから、心が消極的ななるのだ。どんな場合があっても、心がいつまでも長くひっかかっているのを執着という。腕の秀でている剣客が、相手の斬り込んでくる大刀を、大刀風三寸、すっとかわしていくがごとく、心を汚さないようにするのだ。それを悲しまずにおられるか、これが怒らずにおられるか、これが憎まずにおられるか、というように人々は理屈をつける。


習慣として、何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。


「すべてのことを喜び、すべてのことを感謝して行く」


つらいこととか、悲しいこととか、苦しいこととかいうのは、自分の心で決める評価なんだから。つらいことがあっても、
「ああ嬉しい!こうして生きていられる!」と思ったら、ニコニコして暮らしていけるじゃないか。殺されるよりいいじゃないか。


折にふれ、ふっと安定打坐に心を向け、時あるごとに活力を吸収し、そして自分で肉体を鍛えていって、心をしょっちゅう綺麗にする、このことを忘れないように心がけ、実行しよう!


to be continued・・・



0 件のコメント:

一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...