2012年2月11日土曜日

運命を拓く(食べる読書78-2)




引き続き抜粋

この生命の本来である創造意欲は、常に価値の高い目標で定めねばならない。もっと目標の高いものを標準として、自分の創造意欲の情熱の火を燃やさなければならない。それは、第一に、”自己向上”ということである。


ただ変わったと思うのは、心の中の知恵分別や、体の発達の状態、あるいは身分などで、人間そのものは、変わりはないはずである。変わりのない人間であったら、ますます研ぎ上げたらどうだ!
そうすることが、つまり活きている間に、一日一刻といえども、完全に活きることが、この貴重なる生命を与えてくれた造物主への正当な義務である。


「人間は、健康でも、運命でも、心が、それを、断然乗り越えて行くところに、生命の価値があるのだ!」


「断じて行えば、鬼神もこれを避く」


人の生命は宇宙の創造を司る宇宙霊と一体である。そして人の心は、その宇宙霊の力を自己の生命の中へ、思うがままに受け入れ能う働きを持つ。


自己を向上させるために、勉強するんだから、試験を受けるために勉強しているんじゃない。自己を向上させるために、勉強するんだから、試験は楽しいものでなくてはいけない。試験がなければ、自分が進歩したかどうかわからないじゃないか。それなのに試験が嫌いになった学生は、すでに学生としての資格を、自分でスポイルしていることになる。


理解と自覚とはまったく違う。理解というのは、ただわかったというだけであり、自覚というのは、本当に自分の魂に受け入れたことなのである。


「凡人というものは、何事も信念なく諸事に応接するために、自然に不可解な苦しみに悩んで、不安な生涯を送ることになる」


信念が出てこないと、人生は不可解なことがいっぱいなんだから、あっちへウロウロこっちへウロウロとして、本当に安心立命の人生に活きることが出来ないという滑稽な結果だけになってしまう。信念を持つということを多くの人は、大変むずかしいことのように思っているが、決して難しくもなんともないんだよ。


要らないことには、全然、心をおびやかされたり、関係させたりしないことである。


本当の幸福とは、自分の心が感じている、平安の状態をいうのだ。いくら心身統一法を何十年やっても、幸福は向こうから飛び込んで来るのではない。自分の心が、幸福を呼ばなければ、幸福は来やしない。


「出来るだけ平素、幸福の方面から人生を考えよ」


修業を積み、本当の気持ちが出てくると、感情をいつわらなくなるのだ。


恐怖というものは全く余計なものなのである。考えなくてもいいことなのだ。心に犬小屋みたいな設計図を画いて、宏壮な邸宅など出来るはずがない。


考えてみると、無自覚というものは、全く価値のないものである。


いつも口癖にいうとおり、「己れを守るものは、己れだ!」


原因は勇気が欠けているからで、勇気が欠けているから、消極的な心や気持ちが起こってくるのである。


勇気は常に勝利をもたらし
恐怖は常に敗北を招く


心の生活を豊かにするには、もちろん、心で思ったり、考えたりすることが、功利的であってはいけない。終始宇宙本体と同じように、”真””善””美”であらしめると同時に、理想もまた、終始、気高いものを心に描いていなけれなならない。


詩人は詩的に、哲学者は哲学的に、普通の人よりも高級な組織で、その想像が組み立てられる点と、その想像の内容が統一されている点に相違があるのである。


我々は常に自己の欲する事物を、完備し、しかも、チャンと一定した形に積極的に描かねばならない。そして、その求るところのものを心に描き終ったならば、それを固く固く心に守り、どんなことがあっても、決して変更させたり動揺させたりしてはならない。と同時に、特に特に必要な事柄は、確実に自分のものにすることが出来るという”信念”を堅固にして、ゆるがせにしないことである。


以上抜粋

to be continued・・・



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