2012年2月18日土曜日

知の編集工学(食べる読書81-2)




引き続き抜粋


産業革命は「機械」という新しい自立システムを、アメリカ独立は「新大陸」という新たな地上のユートピアを、フランス革命は市民意識という別世界を現実のものにしてしまったのである。


ろくなワールド・モデルがないくせに、そのモデルを提出する主導権だけは、いまなおアメリカがもちつづけているのである。


たしかに、私たちはいつのまにか「問い方と答え方のモデル」をさっぱり失ってしまったのだ。


「卑しい民間の口誦物語、メルヘン、神話は、ある程度は民衆の信仰、その感覚的直観および力と本能の成果である。そこでは人々は知らないがゆえに物語に夢を見るし、見ないがゆえに物語を信じるのである。そこではけっして要素に分割することができない素朴な魂の全体が活動しているのだ」



「物語は文化間の通信が可能になる人類の普遍的特性である」


そもそも物語は最初から書かれたわけではない。…。ひとつの戦争を将軍が語るのか、町の市民が語るのか、誰をナレーターにするかによって、物語は決定的な特色を変えるのだ。


<エディトリアリティ>を厳密に定義することは難しい。厳密をこえている概念であるからだ。


<エディトリアリティ>は主体的でもなく主語的でもなく、かつ客観的でも対象的でもない、はなはだ関係的な両者の「間」を占める概念である。


いったい主体と客体をきっぱりと分けるという方法が、歴史的にはごくごく新しいものであり、しかも近代的な社会力学の必要に応じて生まれてきたものだった。


思想のための諸科学が自分たちの思弁や体系の都合によって、サブジェクトとオブジェクトの親密な関係を引き裂いてしまったということだ。


たとえばチョウは花々の情報を獲得するために、カエルは虫の情報を獲得するために、ヒトは相手の感情情報を把握するために、サブジェクトとオブジェクトが距離的に離れているにもかかわらず、その二つを透過させ、浸透させ、さらには相互作用させるのだ。



「思想を構成する部分のすべてが完結していてはならず、少なくともひとつは不飽和ないしは述語的でなければならない。さもないと、部分は相互に密着しないであろう」



「特殊」としての主語にたいして、述語が「一般」であることを強調したものである。そのため、人間の知識は、この「一般」の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだととらえられた。いいかえれば、人間は自分自身の底辺にある「述語面」で、あらゆる意味と意味のつながりを連絡づけているということだった。



私たちは主語を強調したことで思索の主体を獲得したように見えて、かえってそこでは編集能力を失い、むしろ述語的になっているときにすぐれて編集的なはたらきをしているはずなのである。



私たちはもっと葛藤や矛盾に満ちたものであり、自分の中に「あてどもないもの」や「まぎらわしいもの」をいっぱい抱えている存在である。しかしそれだけでは仕方がないために、いささか非論理的な「見当」と「適当」をうけいれてきたわけだ。



「それは何か」(WHAT)と問うことが、もし「それはこのように使えるものだ」(HOW)という方法とつながれば、知識はWHATとHOWの溝を埋めてくれることになる。ただ、多くの知識はなかなかそういう便利なかっこうをとってくれない。ましてコンピュータの中では、私たちと世界の間にあって、かえって知識が溝をつくってしまっていることが多い。そこでついつい知識を数値的な単位に処理して扱おうということになる。



情報はアクターであり、システムは舞台なのだ。それには情報という役者は、たんなる意味単位であるだけではなく、どのような動きをするかという操作性を内属させたモジュールでなければならなかった。ただし、そこには少なくともひとつの「物語」が必要である。情報という役者はその物語によって劇的に動くのだ。


区切るとは、じつは「関係化」ということでもある。区切らなければ関係は生じない。


私たちはあえて編集を加えて自然や社会を見ているのではなく、観察することが必ずやどこかで<編集的創発性>を生じさせているということなのである。ということは、「見る」とはすでに編集することなのだ。


じつは植物と昆虫が別々にいて、それらがしだいに関係しあっていったというより、最初から「相互編集する情報の密度」があり、それがしだいに拡散しながら植物と昆虫を対発生させていったのではないかとおもえてくる。つまり、<編集的創発性>が植物と昆虫の両方を進化させたのである。



そもそも組織とは「情報編集システムを体制化したもの」であるからだ。


歴史が決して「安定」を求めるのではなく、つねに「混乱」をかかえこむ方向に進んできたことは、そろそろ大議論の対象になってよい。それは、結局のところ国家や民族や企業が、なぜ自己編集性を完結できないのかということにかかわっている。ようするに内部に矛盾が生じ、それが外部に流出したときに、執拗な交換を要求するために、そこに経済混乱と戦争混乱がおこるのだ。このことがわからないと、いつまでたっても「戦争ゲーム」の必然性や「市場の失敗」の理由がつかめない。平和憲法や国連軍では、どんな事態の矛盾の解決にもならないのである。


私はこのような生きた情報がそのまま行きつづけられるボランタリーな編集システムを、研究し、開発してみたいのである。そうすれば、どんな対象であれ、そこには自分に接続する世界の連鎖があらわれてくるにちがいない。



ここは一番、誰かが知の再編集に臨むのではなく、ネットワーク的に、グループウェア的に、そしてコレクティブ・ブレインとして、知識を立体的に並べ換えることである。そしてそのうえで、知識を編集するのではなく、編集を知識にするべきなのである。

私が考える編集は、まさにこうしたワクワクする<自由編集状態>の実現にある。しかし、それは自分の属する世界と無縁であるためではなく、逆にその根幹にかかわるためのものである。<方法の自由>と<関係の発見>にかかわるためなのだ。



情報は関係しあおうとしているということになる。この関係線を見出すこと、それが編集である。つまり編集とは「関係の発見」をすることなのだ。


以上抜粋


to be continued・・・



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