2012年2月16日木曜日

知の編集工学(食べる読書81-1)




以下抜粋

文明の成立過程や文化の成熟過程が情報の編集によって進んできたことを、これまで何度も強調してきたが、それが今日の情報産業社会の進行とともにいっそう編集の役割が重要になってきた


むしろ視聴者はテレビ局の編集の仕方に注目した方がいいということになる。


編集というしくみの基本的な特徴は、人々が関心をもつであろう情報のかたまり(情報クラスター)を、どのように表面から奥にむかって特徴づけていくかというプログラミングだったのである。


遊びでは<ルールの群>がスポーツや将棋のように非常にタイトであるか、逆に、雲の形を見て遊ぶ子供のように非常にルーズであるか(勝手に自分でつくっているか)、そのどちらかの状態が保証されているということだ。



これまでのコンピュータのプログラムは、ワンステップずつのルーチンをもつアルゴリズム(計算方式)をつかって、なんとか論理の計算にたよりきることによって高度な情報処理に近づこうとしていた。・・・。脳はニューロンの興奮のパターンを論理に還元しないで、そのまま相互作用をしている。きっと脳というのは、このニューロンの相互作用の組み合わせがしやすい方向に進化して、あげくのはてに脳というアーキテクチャ(設計構築物)に落ち着いたのである。


学習とは、自分がしたいという欲求を満たすべき「舞台の設定」によって、いきいきと駆動をはじめるものである。舞台というのは、記憶をしたたり学習が進んだりするための、たとえば庭とか机のようなものをさす。そこで何がおこるかといえば、自分の学習の相手をすばやく見出し、その相手と対話をするのだ。


情報の系はある観察者から見たエントロピーの系なのである。


指を折ることをデジットという。「デジタル」という言葉はここから派生した。


指の分節化と言葉の発生は関係があるはずなのである。


分節化がオーダーとなり、そのオーダーがメジャー(ものさし)となって、別の分節化された情報を相互に測定できることが重要なのである。


先に文法があるのではなく、先に分節がある。分節力が文法を理解させるのだ。


先に生命があって、あとから情報が工夫されたのではない。先に情報があって、その情報の維持と保護のために、ちょっとあとから”生命という様式”が考案されたのだ。


注意の構造にこそ記憶システムの前駆性が隠れているはずなのだ。


コンピュータは、計算機として誕生し、そこに「数値化されたデータによって値を判断する」という大きな方向をもたらしたからである。


古代情報世界は語り部や文字だけで保存されたのではなかった。建築や彫刻や図像や文様などによっても、情報管理がされていた。


経済と文化をつなぎ、この二つを編みこむインターフェースは「好み」なのである。


私が注目するのは、この「壊れやすいからこそ、壊しにくい」という不思議な関係だ。
たんに弱者に気配りしようというのではない。それもあるけれど、むしろ自分の強さのレベルで相手に向かうのではなく、自分の弱さのレベルで対象と柔らかく接することが、かえって情報交換をなめらかにするということなのである。やたらに強がっているだけでは本当の情報はやってこない。「強がり」はたんに情報システムを強靭な”物理”にするだけである。



編集は勝利や結果や無矛盾を求めない。編集は葛藤や弱点や矛盾を新たな展望に変換するためのものである。なぜ、そんなふうに言えるのか。編集は「弱さ」を起点に逆上するものであるからであり、しかも、「弱さ」は「強さ」の欠如ではないからだ。
これは来たるべき<自発性の社会>ともいうべきものが、ひょっとして私たちの身近にまで到来していることを告げているのかもしれない。



それまで科学が因果律や要素分類を重視してきたのにたいして、むしろ「プロセスを重視した科学」がありうることを告示していた。システムを要素の積み上げによって構成された静的なシステムと見るのではなく、生きた情報の意味を束ねるために相互連関をおこしている「動くプロセスの複合体」とみなしたのである。


文化とは、メディアをまたいで内容を編集しつづける作業のことだとみなせないだろうか。
しかり、文化は編集なのだ。


伝達され、流通しても欠如しきらないもの、それが<エディトリアリティ>である。


言葉によるラべリングを気にしないで進むということ。言葉の連鎖にしないで思い浮かぶままの分岐を進む。


編集行為というものが自他並列的であることが見えてくる。


編集は、時間とともに変化をする環境条件や意識の深化によって進行し、しだいにそこにかかわるすべての関係を変容させていくところに醍醐味がある。エディティングの進行は、ひとえに関係発見的なのである。あらかじめ決められた配置に話をもっていくのはエディティングとはよばない。それは談合であり、妥協なのである。


私は「アイデンティティ」という見方にも与さない。アイデンティティとは自己同一性とか自己一貫性とかと訳されるが、どんな意識においても変節や変容をもたないアイデンティティなど、とうていありえないとおもわれるからだ。


編集工学で編集方針というのは、何をアクシス(軸)にして編集を進めるかということである。内容をどうするかというよりも、どのような点に着目するかである。


世界の本質は世界のサイズには関係がない。一連の出来事がおこりうる場所、それが世界なのだ。


世界を語ろうとすること、それは世界の中で”どの事”をなすべきなのかという問いの出発を意味していた。ようするに人々は「世界」の前で編集をしはじめたのだ。


どんなばあいも私たちは様さまざまな「世界」というワールド・モデルを想定して話を進めているということであって、そのワールド・モデルがいちじるしく食い違えば衝突や排除がおこるということなのだ。<編集>とは、この使用済みのワールド・モデルを問いなおす作業なのでもある。


ワールド・モデルとはあくまでも、そこで「事」が進行する設定の舞台である。喜怒哀楽の感情や利益の得失はワールド・モデルそのものが担うわけではない。


to be continued・・・



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