2011年8月15日月曜日

現代医学に残された七つの謎(食べる読書40-2)





本書の中で著者も触れているが、現在の医学をはじめとする学問はスポーツへと堕ちた気がする。



ちょっと言いすぎかもしれないが、そう思ってしまう。




科学は、ある真実の有無を確かめ、それをどう活用していくかという形になっているのが現在だと感じる。そのある真実を確かめるにはそれ以外の要素が影響しないようにかなり極端な環境を人工的に作り出す必要がある。そんな極端な環境を作り出すのにはかなりお金がかかる。なぜなら極端な環境だから。これはエントロピーとも関わってくるため金がかかると考える。





つまり、予想される結果があり、それを確かめるには天才的な発想ではなく、どれだけ金を集めて誰もできないような極端な環境の中で自分だけが研究できれば、それだけでその分野で一流なのだ。




最近のノーベル賞などは紙と鉛筆だけで新たな概念創出というのはなく、どれだけ効率的に実験を行えるかの能力が金を集めて、それによる確かな実験結果であろう。






本書は各謎に対して科学者たちがどう研究したかの歴史から説明していて、その謎の説明に至るという形をとっている。それぞれの謎に対する著者の考えは示されてはいるのだが、…物足りない。それじゃあ、ただの教科書だし、教科書にしては中途半端。




謎というからには、それに対する科学者たちの謎解明への意欲もほしかった。なので、一つの謎に対して複数の科学者の意見がほしいところ。



謎を通して、医学界の現状、それを取り巻く環境が本書で、少しだが見えてきた。その結論として、新たな時代の扉は科学によっては開かれないだろうということを感じた。



以下抜粋



自然科学を生んだ欧米の人々の、物事を解明しようという熱意と執念を感じずにはいられない。彼らは政府の補助や指示などなくても自主的に横の連絡をつけ、スポンサーをみつけ、目的を達するのである。一方わが国では、これまで自主的に医師、鍼灸師により行われた鍼の治療効果のテストでは被験者数が二十名を超えたものはなく、テストの内容も欧米のように客観的なものではない。







この感覚神経の電気インパルスの自律神経への「飛び移り」は極めて重要な知見である。なぜなら、大脳皮質の精神活動に直結する体性神経系と、精神活動とは無関係に身体機能を調節している自律神経系とを連絡する神経の連絡路は、解剖学的に知られていないからである。





一般に、ある仮定された構造の実在とその生理学的な働きは、解剖学や生理学の研究により証明可能であるが、逆にある仮定された構造やその働きが実在しないことの証明は原理的にほとんど不可能なのである。いくら研究を重ねてその実在を否定しようとしても、「将来実在が証明されるかもしれないではないか」と反論されればそれまでで、議論は平行線をたどるばかりである。実際に現在も「経絡路は実在し、神経回路とは無関係である」との主張が鍼灸師によりなされている。






脳波記録そのものが抱える複雑性、あいまいさ性に加えて、物質の効果の脳波による判定の際、実験動物の状態が過度に単純化されており、さらにこの単純化にもかかわらず、その睡眠に及ぼす効果は劇的とは言い難い。以上は実験法の問題である。






動物の体内には独自の概日リズムを作り出す体内時計があること、またこの概日リズムは光照射によってリセットされえる、つまり再認識されたのちスタートすることがわかる。






体内時計はこのように広い意味での化学反応に依存しているにもかかわらず、温度変化の影響をほとんど受けないことがわかっている。一般に化学反応の速度は温度の上昇とともに増大する。・・・
体内時計ニューロン内の一連の化学反応速度が、フィードバック機構により調節されているとはいえ、温度変化に対して一定に保たれているのは驚くべきことである。





じつはメラトニンの効果は、いくつかの睡眠物質探究グループによって既に1960年代から実験動物やヒトで調べられており、きわめて深い睡眠を起こすことなどが示されていた。しかし彼らは、睡眠が深すぎるので異常であるとか、投与量が多すぎるなどの理由でメラトニンにさして注目しなかったのである。この事実は、研究者グループ間の溝、偏見、排他性などを考えさせてくれる。





ある仮説を立てて長年研究を続けていると、この固定観念から逃れることが困難になることがわかる。





実験的に存在が確かめられている細胞あるいは神経回路でも、解剖学的にその存在を示すことが困難な場合がある。したがって重要な働きをする神経回路であっても、実験的にも解剖学的にも存在が確かめられない幻の状態にあるものが多数存在するのである。体性神経系と自律神経系を連絡する神経経路もそのようなものの一つである。







電子顕微鏡の解像度は極めて高いが、観察すべき試料の構造は、固定、脱水、包埋などの処理のため、生きていた状態とは著しく異なっており、生きた筋肉でのミオシン頭部の運動の研究には不適当である。






自然科学の研究分野は、一人の天才によって一挙に切り開かれる。これをブレークスルーと呼ぶ。すると多くの研究者がその分野に群がり、盛んに研究を行うがやがて壁に突き当たり、目覚ましい進歩の見られぬまま時が経っていく。自然科学のこのような発展段階をノーマルサイエンスという。







実際の人体はこれよりはるかに多数の、異なった有機物質から構成されている。また体内のタンパク質の過半数は糖類と結合した糖タンパクである。しかし糖類の遺伝情報はDNAには書かれていない。さらに生体にとって最も重要な細胞膜の主成分は脂質であるが、この遺伝情報もDNAに存在しない。







多くの場合、遺伝暗号欠落動物は卵子から成長した後、期待されるような異常を全く示さないようである。この結果は明らかに、動物が成長する間に遺伝暗号の欠落を補うメカニズムが働き、将来起こるべき障害を打ち消してしまうのである。これは生体の持つ驚くべき能力と言わねばならない。われわれ自身も遺伝的欠陥を持って生まれ、これを補うメカニズムのおかげで生きているのかもしれないのである。

しかし、このような研究者の期待に反する結果が得られると、生体の神秘がまさにベールを取り去り顔を見せかけているにもかかわらず、研究が失敗であったとして研究者は何の発表も行わない。反対に予期した障害が動物に現れると、研究者は欠落させた遺伝暗号の機能的意味が解明されたとして、得々と成果を発表するのである。このようなことでは、たとえ予期した障害が現れても、短絡的に遺伝情報の欠落と結びつけてよいのか考えてしまう。







自然科学とは、仮説を立て、実験によりその正しさを確認し、さらに仮説を立てる…という過程の繰り返しにより、どんどん研究を進歩させてゆくのが常道である。しかし、この常道はいつもうまくいくとは限らず、行き詰まりに陥ることもある。そのような場合、その研究分野は近縁の研究分野の進歩から取り残され、いわば置き去りにされてゆく。







研究の最前線として現在、脚光を浴びている脳の働きと遺伝暗号発現の謎。私はこれらの分野の研究の部外者であるが、近年のこれらの分野への「トップダウン」による巨費の投入に疑問を感じている。この分野の研究法はほとんどが外国から導入したものであるが、政府によるバランスを欠いた研究費の配分により、一部を除く大学では研究室の予算は激減し、独創的研究がその芽を摘まれている。そして、これらの分野の研究は停滞しているとしか思えないのである。



以上
またね***


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一枚の葉

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