2011年8月30日火曜日

知の荒野に立たぬために(食べる読書48-1)



正直に白状すると、はじめにこの本を少し読んで、「何だ、年寄りの昔話か…。」と感じ、読むのをやめようと思っていた。はじめのほうは心に響かなかった。





が、数日放置した後、もう数ページ読んでつまらなかったら読むのをやめようと決めた。そして、読むと、そこには現在ではなかなかお目にかかれない考えがあるのである。





自分の未熟さを痛感した次第です。





この本を読んで感じたことは、武士道―サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか?を読んだときと似ている。






素晴らしい考えだし、なるほどと思える。が、今の時代にそのまま適用はできないだろう。当たり前だが、武士道は封建制の社会だから成立した考えだし、この本の深い洞察力などは、いまのめまぐるしく変わる時代においては、何かにガッツリ時間をかけて取り組むということはなかなかできることではない。






思想なり考えなりができあがるということはそれを成り立たせる社会としての基盤があるということ。根本的に時代や社会体制などが異なるのに、単に素晴らしいというだけで、武士道などをこの時代にそのまま移植することなどできないのである。






ここに、むかしの考えを現在に活かそうとする際のジレンマがある。






”温故知新”とは言うが、それはかなり洞察力が優れている人でないとできないことなのかもしれない。






しかし、はたと気づいた。

そうではないのかもしれない。

昔のものを活かすということはそういうことではないのではないか。

単に現在に活かすということではない。昔のことを知るということは、むかしの考えなりを知ること。昔の視点をもつことになる。現在の価値観にどっぷりつかっている我々には現在を客観的に観ることはできない。その現在を外から眺める道具として昔の考えは使うべきなのではないか。







どうあがいても現在を生き、現在に責任をもつのは我々現在生活を営んでいる者達なのである。我々が現在をどうにかするしかないし、それが我々である。それを昔の価値観をそっくりまねするということは、いま生きている我々自身の生への冒涜になる。





生きている“今”をよりよくしたいなら、より良くするなら、もっと“今”を知る必要がある。そのために多くの古典なりがある。偉大な人たちが残したもの。その人たちの胸を借りるのではなく、主役はあくまでわれわれであり、彼らの生の痕跡から何かしら我々が先に進む糸口を見つけるのだ。






抽象的な結論になり、どう活かしていくか具体的にはまだ見えてはいない。






まあ、あせらず多様な見方・考えを楽しみましょう☆



to be continued ・・・



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