2011年8月29日月曜日

仏教聖典(食べる読書47)



広くかつ深い。




本書の内容きちんと理解できたとはとても言えないが、


二千五百年を超えて生き続けるエッセンスというのはやはり最近の書物とは比べ物にならないくらい本質を突いていると感じた。





しかし、本書で私が最も衝撃を受けたのは仏教の思想の内容ではない。




第五章、第一節 「仏の願い」(P102~)である。



畏怖した。



この感覚はプラトンのソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン (新潮文庫)のパイドンを読んだ時以来。




以前は人間がここまで高められるのかということを臨終の際のソクラテスの言動から見せつけられ、ただただ畏怖したのを覚えている。




今回は、志とそれを見定める洞察力・観察力・自己と世の中を見つめる能力などもろもろのもの。どう表現していいか、語彙力のなさがここで露呈するのだが、目標設定自体の真髄。「始まりは既に終わりを含んでいる」という言葉の通り、目標設定によりその結果は分かるという部分。これは単なる一部分なのだが。


ただ単に、”人間はここまで物事を見通せるものなのか。”これが率直な感想であり、その仏の願いの内容と共に打ちのめされ、畏怖するのみであった。






本書を読み終え、五日くらい経つのだが、この部分は読みかえせないでいる。




自分の弱さ、醜さ、卑怯さ、恐れなどを見せつけられるからである。




だが、いつまでも逃げてばかりでは何も成せない。今、目の前に自分の弱さを認識させてくれるものがあるということは、今がそれに対峙する時であるととらえる。




以下仏の願いを抜粋する。



(a)たとい、わたしが仏と成ったとしても、わたしの国に生まれる人々が、確かに仏と成るべき身の上となり、必ずさとりに至らないならば、誓ってさとりを開かないであろう。


(b)たとい、わたしが仏と成ったとしても、わたしの光明に限りがあって、世界のはしばしまで照らすことがないならば、誓ってさとりを開かないであろう。


(c)たとい、わたしが仏と成ったとしても、わたしの寿命に限りがあって、どんな数であっても数えられるほどの数であるならば、誓ってさとりを開かないであろう。


(d)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあらゆる仏が、ことごとく称賛して、わたしの名前を称えないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。


(e)たとい、わたしが仏となったとしても、十方のあらゆる人々が真実の心を持って深い信心を起こして、わたしの国に生まれようと思って、十返私の名前を念じても、生まれないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。


(f)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方のあらゆる人々が、道を求める心を起こし、多くの功徳を修め、真実の心をもって願いを起こし、わたしの国へ生まれようと思っているのに、もしもその人の寿命が尽きるとき、偉大な菩薩たちにとりかこまれて、その人の前に現れないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。


(g)たとい、私が仏となっても、十方のあらゆる人々が、私の名前を聞いて、私の国に思いをかけ、多くの功徳のもとを植え、心をこめて供養して、わたしの国に生まれようと思っているのに、思いどおりに生まれることができないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。



(h)わたしの国に来て生まれる者は、「次の生には仏と成るべき位」に到達するであろう。そして、彼らは思いのままに人々を教え導き、それぞれの願いに従って、数多くの人々を導いてさとりに入らせ、大悲の功徳を修めることができるであろう。たとい、わたしが仏と成ったとしても、もしもそれができないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。



(i)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあらゆる人々が、わたしの光明に触れて、身も心も和らぎ、この世のものよりもすぐれたものになるようでありたい。もしもそうでないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。



(j)たとい、わたしが仏と成ったとしても、十方の世界のあらゆる人々が、わたしの名前を聞いて、生死にとらわれることのない深い信心と、さえぎられることのない深い智慧とを得られないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。



わたしは、いま、このような誓いを立てる。もしもこの願いを満たすことができないようなら、誓ってさとりを開かないであろう。限りのない光明の主となり、あらゆる国々を照らして世の中の悩みを救い、人々のために、教えの蔵を開いて、広く功徳の宝を施すであろう。



以上が抜粋である。



さとりとは何かということがまだ分かってもいないのに、さとりがどういう効果を起こすのかは知っている。つまり、さとり自体がもともとの目的ではなく、上に抜粋したような効果が目的なのだ。



ビジョンをもっていた。仏陀は、さとりへの道に入る前に、いやだからこそ、さとりへの道に入ったのだが、さとった後の世界を見ていた。



仏陀は当時の人々の中に煩悩に振り回されている姿を観た。このこと自体がもうすでにすごい。当時の人にとっては普通で当たり前のこと。苦しむのが当たり前であり、煩悩があるのも当然。むしろ、それが人間であると無意識で認めていたのであろう。そんな社会にあって、そんな常識に疑問を持ち、本当の、というか、さらなる人間の真の姿を見抜く。誰も、そんな人間なんか見ていないし、存在もしない当時、彼だけは見ていた。




ここまでなら、ある特定の分野ではあるが、多くの人がそれぞれの考えをそれぞれの時代で表現してはいる。だが、やはり、仏陀ほど本質を見抜いていた人はほとんどいない。だから、時代が変わると使い物にならない骨董品と化してしまう思想だったりする。しかも当時の社会ありきの発想だったりするのだ。



そんな誰も観ていない新たな人間像をただたんに提唱するだけでなく、それを実現するために教えを説いていく。出会う人出会う人それぞれ異なる悩みにこたえていく形で。




とてもじゃないが、仏教の真髄を理解しているわけでもないし、仏教研究をしたわけでもないので、仏陀の偉大さを本当に知っているかと言われれば否と答えるしかない。



なので、抜粋した願い自体を願うことがどういうことを表しているのかという本当のことは分からない。




しかし、「我」がないという点で、仏教思想とこの願いは共通していると感じる。




わたしが畏怖したのはこのことではないかと思った。



仏の願いの中に「我」はまったく無かった。



一方、わたしの願いはどんなものにしろ「我」が出発点となっているような気がする。いや、実際はそうではないのだが、さらにたちがわるいことに、無私で始めたことが途中で顔を出す「我」を理由に途中で放り出す自分の身勝手さ、醜さ、・・・などを白日のもとにされされたのだ。



麻薬の味をしめ、ついに自分を見失うように、我による煩悩の味に目がくらみ、本来の目的を見失う自分。もっと、価値のある人生を求めていたはず。自分はどこまでできるか人生を舞台に挑戦し続けるはずなのに。





仏陀の生き方はとても勉強になる。その教えも。




偉大な人たちの開いてくれたこの人類という軌跡。わたしはこの軌跡の一部分を担うことができるだろうか。そのチャンスはすべての人に開かれている。それは、自分の幸せがそのままその他の人々の幸せとなることを意味する。



わたしは人類のまだ見ぬ世界を見、そこへ人々を導きたい。仏陀がそうしたように。




以上
またね***



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