2011年8月12日金曜日

東大で教えた社会人学(食べる読書39)





東大工学部卒業後商社に就職し、その後独立するという一般的な技術者とは異なる人生を送ってきた著者が東大生に対して技術者に必要な社会常識・経済常識を講義したものをまとめたもの。






学生に対する講義、しかもその学部の専門外ということで社会に対する講義内容は一般的な内容に終始する。堺屋太一や大前研一といった人たちのように研究・調査した内容を講義しているわけではない。





なのでその信憑性には疑問を持つべきだが、著者自身の半生における経験をもとにした講義なだけに、実践的な内容になっている。なので、受講生たちにとっては専門外の話ではあるが、自分の興味のないことが自分の人生とどう関わってくるのかを知るという点でかなり価値はあると感じた。若い時は興味ないことには見向きもしない。ましてや、技術者となると自分の研究のことで頭がいっぱいになり、少し社会性が疎くなりやすいように感じるからだ。





そういう意味で東大はバランスのいい教育をしているなと感じた。工学部の一講義で判断できることではないが、そんな意図は感じられる。






教育は社会で活躍する人材をつくるのが目的の一つ。なので、若者たちが今後活躍する社会はどんな社会なのか教えるのも教育の一環になってくる。よって、こういった本や大学の教養課程から現実社会のことが多面的に知ることができると考える。




こういったものは単なる知識として持っていて、そこから興味のあるものがあれば自分で掘り下げればいい。




以下抜粋



敗戦の後遺症で「アメリカが全部考えてくれる」「アメリカが守ってくれる」という、対米従属体質が骨の髄まで染みついている。
思考停止状態を続けている限り、本当の国家ビジョンは持ち得ない。





中国ではそれが当然だという。つまり、学校を作る場合にも、企業が工場を建てる場合にも、そこで働く人たちのすべての生活が成り立つような共同社会、いわば“学校村””企業村”を大学なり企業が作ることが求められるのだ。





中国では一つの会社の同じセクションに二人のヘッドがいる。一人は経済活動のヘッドだが、一人は政治単位としてその組織を統括している共産党の幹部で、最終決定権は常にヨコ糸のヘッドが持っている。






官僚機構自身が持つ組織防衛本能が今や日本経済のブレーキになってしまっているわけだ。






これからは社会全体が豊かになる時代ではなくなるということだ。成功した人と失敗した人の所得格差は確実に広がっていく。






科学技術の本質を理解していない文化系の人材を機構のトップに据えたために、本当のやるべきことができていないという場面に私は何度も遭遇している。







昔は漫然と生きていてもよかった。それなりに社会が成長し、会社が成長し、自分の地位も上がって収入も増えた。でも、これからはそうはいかない。地位や給料が自動的に上がっていくことはないし、下手をすれば日本という国自体がずるずると落ち込んでしまう危険性だってある。






本当に理科系の人種なら、世の中の現象を理科系の目で捉える義務があると私は思っている。今、世の中で起きていることにはどんな要素があって、それがどんな構造性を持っていて、それがどう動いているか。サイエンスの視線で社会や会社を見たときに、見えてくるものがたくさんある。自分がなすべきことも見えてくる。世の中に対して自分がアウトプットすべきことがわかる。







巷では東大生が就職するようになった会社はダメになるとも言われる。







特に東大生の場合、自分は出来がいいんだからいい就職先を選ぶ権利があるし、その権利を行使するのが当然だ、と思い込んでいる。






同方向のベクトルがどれくらい揃っているかということを数学では“内積”という。反対にベクトルがどれだけ違う方向を向いているかが”外積”。
変化の激しい時代に生き残るのは、内積の大きい会社よりも外積の大きい会社である。







将来、経営の一角を担うときに必要なのは全体の企画力であり大所高所の決断力で、文科系の社員は企画関係の仕事で成功や失敗を数多く経験する中で、骨身に沁みてそれを学んでいく。一方技術屋は「何を、いつ作るか」ではなく、「どう作るか」という実作業ばかりを繰り返し考えている。それが管理職以上になったときに大きな能力の差になって表われてくるのだ。








人間は自分が理解できる事柄を通してしか他人を判断できない。だから、相手に評価してもらおうとしたら、その相手の土俵に上がるしかない。相手の土俵で互角以上に戦って初めて評価や尊敬を得られる。そして相手の土俵に上がったつもりはなくても、相手は自分の土俵で人を不当に評価しているのだ。






人口統計を見れば、65歳以上の老齢者を現役世代が養えるはずがないことは一目瞭然だ。養えもしないのに、養えるという前提でものを考えるのがおかしい。






ゼロサムゲームがほとんどというのが日本の実力主義の実情なのだ。





給与総額の抑制に主眼が置かれた実力主義や成果主義の多くはこのような形で導入されてきた。






会社にとって必要な人材を確保するために、あるいは不必要な人材を切り捨てるために、実力主義は日本の企業社会に根付いていくだろう。







教育による社会階級の固定化は確実に進行している。







住宅が資産になるという考え方は、このようにインフレで土地が値上がりした時代の大いなる幻想にすぎない。







マクロ経済的にいえば、無駄遣いをするから潤う人がいるわけで、それで景気も活性化される。






老人虐待はどこでも起こり得る。悲しいかな、いつの時代もストレス発散は弱者に向けられるのだ。







被相続人は連帯保証債務があることを言い残さければいけないし、相続人は相続開始から三カ月以内に財産を徹底的に調査したほうがいい。たとえば被相続人が事業主だったりすると、家族に内緒で連帯保証をしていることも少なくない。何年も前の話で被相続人が連帯保証をしていたことをうっかり忘れているケースだってあるのだ。








保険設計というのは自分の人生における活動計画そのものである。自分の人生の中で、どんなことがどういう確率で起こり得るのかを考え、それに備えて保険をかける。





自分の人生をどうするかというプロジェクトを立てるときに、保険設計は格好の仮想演習になる。






以上
またね***





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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...