2011年8月5日金曜日

荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論(食べる読書38)






「いや、この仗助君ならやれる!!!曲がる!!曲がってやるううう。」





の作者である荒木飛呂彦の初の新書です。




私自身あまりホラー映画には興味があまりなく、怖いと意識したのは「キョンシー」幽幻道士 DVD-BOXエイリアン [Blu-ray]くらいでした。しかも子供のころという…。




どう観ればいいのかわからないから観なかったんだとこの本を読んで感じた。





また、ジョジョの魅力の源泉の一部を垣間見た気がした。




ジョジョの魅力の一つに、登場人物がみんな魅力的で全部ではないにしろ共感する部分を持ち合わせている部分があるところがあると感じる。それは、ホラー映画から人間の本質的な部分そのものだったりその表現法を学んだからなのだろうと納得してしまう。




「ひたすら”人を怖がらせる”ために作られていることがホラー映画の最低条件で、さらにはエンターテイメントでもあり、恐怖を通して人間の本質にまで踏み込んで描かれているような作品であれば、まぎれもなく傑作と言えるでしょう。」




と本書にあるように、恐怖を通してそこにどんな人間の本質が潜んでいるのかという視点で著者はホラー映画を観ているし、そういった人間の人間らしさを映画を観て味わっているように感じるし、著者の作品を通して我々もそれを味わっているんだと感じた。





とにかくホラー映画に対する見方が変わったし、ホラー映画を観たいと思わせる。




また、ホラー映画を「人生の醜い面、世界の汚い面に向き合うための予行演習として、これ以上の素材があるかと言えば絶対にありません。」と捉えている。




確かに、震災後の政治のあり方などには心底恐怖するが、政治の汚い部分にうろたえ、感情的になるのではなく、それに対して瞬発的に対応する人はこういう訓練ができているのかもしれない。





他に本書には表現に関する部分にも多く割いている。さすが、表現者だけあって解説が分かりやすい。



「その時にゾッとするのが、レザーフェイスが解体場の引き戸を手で“ドーン!”と閉める、その感覚です。その閉め方と閉める速度とパワーがもう決まりすぎていて、希望も同時に閉ざされることがそのシーンに象徴されている。閉めるレザーフェイスにしても”ここからは俺の世界だ”みたいな雰囲気を漂わせつつも、一方では日常行為として人を殺しているにすぎませんから、“今日も料理するか”みたいな脱力した感覚も伝わってくる。この映画の殺される側にとっての意味、殺す側の意味みたいなものは、すべて“ドーン!”と閉じられる、このドアに集約されているのです。」





「カッコよくて、美しくて、恋人もいて……みたいな、誰もがうらやむしかないような若者たちを登場させて、彼らが惨殺されることで観客に密かに溜飲を下げさせる。そして観客の法も”残酷なものは観たくない”と目を覆いながら、心の中でもう一人の自分がそれをスカッとした気持ちで観ているとしたら、“13日の金曜日”は恐怖と癒しを同時に与えていることになるのです。」






ちなみに、ジョジョ以外ではゲゲゲの鬼太郎が最も好きです。




一見全然共通点がないように自分自身でも思っていたのですが、この本を読んで、共通点が見つかった。




勧善懲悪ではなく、人間の醜い面も正面から表現しているところだろう。だからこそ、人間は厄介だし、いとおしいし、生きる価値があるというか生きてて面白いと感じる。そんな両極端が共存できるところが好きです。自分自身のそういうところを強く感じるだけかもしれないが…。





以下抜粋





さらにいえば「不幸を努力して乗り越えよう」のような、お行儀のいい建前は絶対に言わない、それよりも「死ぬ時は死ぬんだからさ」みたいにポンと肩を叩いてくれることで、かえって気が楽になるという、そういう効果を発揮してくれるのがホラー映画です。






恐怖を通して、現実世界の不安からひと時の開放をもたらしてくれるのがホラー映画です。





肉体を曲げたり引き伸ばしたりする奇抜な人体表現がもてはやされるのは、生と死の限界を突き抜けていこうとするような情熱をそこに感じるからではないでしょうか。





同じ人間どうしでも生活環境が異なるものの間には、時として絶望的なまでのコミュニケーションの断絶が生まれてしまう。






反道徳的なものをそこまで映画で突き詰めるのはあきれるほど凄いことだと思うし、音楽にたとえるならこれぞ「ロックだ」となるでしょう。





童話というのは本来残酷な伝承、あるいはおとぎ話であったものが、「教育上よろしくない」ということで今日あるような話になっていることが多いのですが、このフレディの数え歌は、童話の本質を正統的に受け継いでいると言えるでしょう。







ビザール殺人鬼映画というのは理解するものではなく、感じるものだと考えていますから、さらには道徳と快楽を一体化させたり、正義と悪を一体化させたりという、理屈ではできないことを感覚的にやってのけてしまうノリは大歓迎です。






秘められた歴史が恐怖に重みを与えている。





その正体を想像することしかできない霧に包まれて恐怖は増幅し、それが人間の心の闇をさらに広げていく。あるいは霧と人間の心理とが共に不可視の闇として描かれていると解釈することもできます。





主人公を不自然でない形で密室のような状況に置くにはどうするか





主人公を容赦なく扱う





そんなマインドコントロールの怖さというのは社会性を持った人間の根源的な怖さであって、いわゆるホラーとはひと味違ったテイストの作品になっています。






この悪魔が人間の道徳とか宗教とかとはまったく違う背景を持った存在だからかもしれません。






邪悪なものを描くことで、それに対抗する人間の心の美しさも同時に描くことができる。






芸術作品は「美しさ」や「正しさ」だけを表現するのではなく、人間の「醜さ」だとか「ゲスさ」とか、そういった暗黒面も描き切れていないと、すぐれた作品とは絶対に言えません。





僕はやはり、「恐怖」を表現するあらゆる芸術行為は人間にとって心や文化の発展に必要なのだと思います。そして僕はそうした行為が、後の時代に振り替えれば、結果的には文明の発展にさえ必要なのだと思っています。




以上
またね***



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