2011年9月1日木曜日

天皇論(食べる読書49)





まず、一言言っておきたい。



勉強なります。






ところで、昔からたまに考えてたことだが、どんな人かをたった一つの質問で見極めることはできるのか?とか、一瞬で、誰かを虜にするには何をすればいいのか?などと考えてた。






おそらくそうするには、その人をその人たらしめている何かをくすぐればいい。
弱みを握られた人間が言うことを聞くように、その根幹を握れば自分の意のままなのではないか?






もしそうだとして、最も楽なのは、己自身の根幹が何かを分かっていない者を相手にする場合だろう。防御しようにもどこをどうすればいいかわからないし、まず“問題”自体自覚できないのではないのか?







一方、己の根幹は何かを知っている者は、たとえ一時相手にそこを握られたとしても、己自身を回復するだろう。自分の根幹を変えるか、あるいは相手から奪われたものを取り戻すことでだ。









本書では、日本人の根幹に当たるものが天皇の存在そのものであると示している。





これまで、ほとんど関心を持たなかった天皇だが、読み進むうちに自分の無知を恥じざるを得なかった。







だが、本書の内容を知っている日本人はどのくらいいるのだろうか。まさに、己の根幹を知らない者の集まりではないのかと感じた。









そして、己の根幹を認識するには、やはり己自身を客観視できないといけない。
そのためにも、自国の歴史を学ぶことは最低限のことである。もちろん、その歴史自体も客観視して学ぶ必要がある。現在の価値観ですべての歴史を色つけすることは客観視していることにはならない。もちろん特定の思想による観点だけでも駄目である。






そういう意味で、本書は著者がしっかり勉強した形跡が見られ、わかりやすく天皇について述べている。








気持ちいいところを愛撫されて自然と股を開き、己自身を相手にさらしている状態が現在なのではないかと感じる。そして、そのさらしている部分が未来の我々の子孫につながるにも関わらずだ。





「汝自身を知れ」


から初めてすべてが始まる。




以下抜粋



閉鎖的空間で観念だけを振り回して外に向かって敵を作り、内に向かって異物を排除する全体主義が形成され、
屁理屈と非常識が常態となって、単なる殺人を「総括」や「ポア」という名称で正当化してしまう。






真に必要な「権威」は否定しない。
真の権威なくして社会の安定を保とうとすると、ひたすら力で押さえつけることになってしまうからだ。







時代が激動していない時は、天皇が前面に出るようなことはない。







「正月」とは、単なる「年初」のことではない。
日本最古の宗教行事であり、仏教伝来以前にすでに存在していたといわれるものである。






欧州の王室の起源はよそから来た征服者であり、国民とは別民族なのだ。






(元号は)今や世界中で日本にしか残っていない貴重な文化である。






日本の元首は天皇であるというのは国際常識なのだ。





堕胎にしても、人工授精にしても、「ならぬものは、ならぬ!」というタブーが壊された時に、
まさにそのタブーこそが人間の知恵であったことを知るだろう。







「払われた多くの尊い義性は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の内にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。」







長い間ご苦労というお言葉をもらったので満足しています。お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。
夫の霊前に報告したい。
陛下のお言葉でまた一生懸命やろうという気持ちが湧いてきました。






伝統が戦争の大義なのではない。
ひとたび戦争が決定されると、伝統は防衛という名の戦争計画の背後に国民を統合するための手段となる。
そうすることによって、為政者は複雑な戦争理由をわかりやすくするのである。







変化の少ない毎日ながら、今日もまた新しい自分に立ち返り、新しい清々しい心で、自分自身に打ち勝ってゆきます時、身も心もまた修められ、知も自ずから磨かれ、御光をいただきまして輝きますのが真の内掌典でございます。







なんと昭和天皇は、「紀元節祭」も「明治節祭」もなくなったにもかかわらず、
それでも両日は特別に拝礼するとおっしゃり、
以降毎年「臨時御」という形で御親拝を続けられたのだ!
これは恐るべき強固な抵抗の意志である。








天皇は文人から武人に、一時は「神」に、再び文人にと変身を続けたが、それは常に天皇自身の意志とは関係なく、政府や国民の要請によるものだった。








今も時代によって国民を映す鏡のように天皇イメージは変化し続けている。
我々はそのイメージにだけ目を奪われているのではなく、天皇が一途に守り続けておられる伝統や、祭茬祀の重要さにも、関心を持たなければならない。







「シンボル」とは、神聖性と歴史性を帯びた聖なる概念であり、現在の人間の意志で変えることはできない!






理解できない敵を「悪魔化」するには、自己の姿を投影するのが一番わかりやすかったのだろう。








「無私」の天皇を支える宮内庁に「保身」という「私欲」しかないのではシャレにもならない。







「序列」がなければ「秩序」を維持できないのに。







戦後民主主義の中で育つと、どうしても「平等」や「個人の自由」という価値観を至上のものと思いがちですからね。







人間は古も今も社会生活国家生活には必ず権威を必要とする
人間本来の性質に基づくものであり、そして、天皇を仰いだのは、天皇に日本民族社会の、
日本民族国家生活の窮極かつ最高の権威たる実質が見出されていたからである








そもそも本物の「反骨精神」は、規律や秩序なくして、育つはずがないではないか!
常識ある大人と、体制の壁がしっかりあって、自分の中にどうしても反逆せねばならぬ本物の動機を確認できたものこそが、
形骸化した権威や因習を打破する知恵と実行力を発揮し、
世の中を刷新する個性として育っていくのだ!








伝統と共に生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、国や社会や家がどれだけ力強く、豊かになれているかということに気づかされることがあります。
一方で、型のみで残った伝統が社会の進展を阻んだり、伝統という名の下で古い習慣が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは、好ましく思いません。








変わらぬもので価値のあるものは、皇室祭祀しかない。静かな祈りと語らいの時代が来ることが国民の願いのはずである。




以上
またね***


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