2011年9月22日木曜日

なぜAiが必要なのか(食べる読書58-1)




題名の通り、Ai(オートプシー・イメージング)は必要だよ!と言っている本。



「解剖制度が社会的に未整理で、非論理的検査になってしまっている。死因究明のための解剖制度は司法解剖、行政解剖、承諾解剖、病理解剖と、行政的に4つに分断され、責任官庁が違い、取りしきる法律も違う。これでは解剖を増やそうと頑張っても、誰が主体かわからなくなり、そうした運動は求心力を失う。」



と本書にあるように、読んでいてどこに焦点があるのかわからなかった。






Aiを歴史、医療、捜査、司法、倫理の面から記述している。だが、単に現状説明に終始しているだけのように感じる。Ai導入による利点は説明で分かるのだが、それによって社会生活がどう変わるのかがイメージできない。また、Ai導入により、人々の社会認識というか価値観がどう変わるのかもいまいちピンとこなかった。心にあまり響かなかった。必要なのは分かるが、では我々一般市民はその導入に対してどうすればいいのかもわからなかった。






新たな科学技術は見えなかったものを見えるようにする。これが厄介。我々は未知なるものに対する迅速な対応法を持っていない。長い年月をかけて新しいものに対する情報が貯まり、統計学的にある程度どういうものかの概略がわかった時点で適切な関わり方がわかるという形だ。








以前も書いたが、いま人類の持っている情報処理技術では、今後どんどん出てくるであろう新たな科学技術に対してスムーズに対応できない。よって、Aiのようにどこをどう攻略しいけばいいかわからない、またはその技術自体が新たな問題を産みだすといったことを乗り越えないといけないことが多くなるだろう。








そういう意味で、“法”の概念自体が最も変化を要求されるのではないかと考える。法律は社会秩序を保つためのもの。その社会秩序というのは「状態」のことであり、一つの価値観に照らして、ある事象が妥当かどうかを判断するものである。社会秩序と法は一対一に対応しているということである。今の日本は資本主義・民主主義という価値観の基(実際はこの言葉で語れないほど複雑ではあるが)社会秩序を形成している。なので、資本主義の根幹を脅かす技術、または民主主義が成り立たなくなるような技術により人々の意識が変わるということが起こると、それに合わせて“法”は変えないといけない。 だけど、リアルタイムでその都度、市民の言動の基準という面も持つ“法”が変わることができるだろうか。もし変わったとして、その変わるということ自体が、社会秩序を保つことに反することになるのではないか。“法”自体が“法”を否定しているという奇妙なことも起こりかねないのではないか。








よって、新たな考え方が求められている。







今は要素還元主義と二元論でほとんどのことを捉え、今の社会を創ってきた。







だが、今後単純に要素還元主義や二元論では語れないことが増えてくるだろう。







Aiは、制度構築で時間かかっている。法律や人材育成、設備導入のための予算、人々への啓蒙など、やるべきことは多い。なぜなら、人々の死因究明に対する価値観を変えることを意味するからである。







だからこそ、Ai導入への軌跡は大いに参考になるだろう。



to be continued ・・・





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