2011年9月12日月曜日

希望は絶望のど真ん中に(食べる読書53-2)



以下抜粋


私は一ジャーナリストとして疑う。ビン=ラディン氏に発言させないで始末することを望んだ人たちがいるのではないか、と。ミスター・オバマよ、この疑問にどのように答えますか。







戦争が進めば進むほど、国家と国民の関係は冷たくゆがんでいった。交戦権は国家の権利とされたが、それは支配階級だけの極秘の特権だった。国民は、戦争の開始や目的、その進行について、政府からまともな相談や報告は、一度も一個も受けなかった。








歴史の下す因果応報の裁きは厳しい。人が人として必ずやらねばならぬことをやり遂げない人に対しては、後退させることはあっても、歴史の道を前へ進ませない。・・・。人としてやるべきことを必ずやり遂げようと努力し続ける人がおれば、その人たちが仕事を完了するまで、いつまでだって待っている。







自分たちの戦争行為を自分たちの手で裁くこともやらなかった。GHQの極東軍事裁判にまかせて、それで済ませた。日本そのもののよみがえりを導く日本国憲法も草案をGHQから受け取って、それで済ませた。必ずやらねばならぬことをやらなければ、その報いのくるのは当然ですな。







約200の加盟国の中でアメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスが常任理事国とされたのは、世界平和のために働く能力とモラルが秀れているからでしょう。そうでなければ、おかしい。その五カ国だけが、核爆弾の製造・貯蔵を許されたのはなぜか。どこのどなたが、何を根拠に五カ国にそんな許しを与えたか。納得のいく説明を私は全くどこからも聞いたことがない。もちろん自分では説明できない。あなたは?






現実の世界状況から見て、交戦権と軍隊と兵器の所持は、国家であることの条件であり資格だ。日本社会からそれを除去することは、国家としての外形は許しながら、心臓を抜き去ったようなものですな。








あの敗戦時に日本国民が力を合わせて、自分らのやった戦争行為の一切をわが手で裁き、迷惑をかけたすべての人々にありったけの真心を込めて詫びて許しを請い、そして自分らの進路を自分らの力で開拓したら、物事の姿が二面であれ、もっと多面であれ、真相をハッキリと見て取ったに違いない。








教育の本質を曲げて株式会社たちの求めに応じようとした余り、社会の現実の職場で役に立つ能力を青少年から奪ったのではないか。ここに私の確信する判断を刻んでおく…「やると決めたら100年続けてやり通すし、やり通せるもの、それこそ、それだけが教育というものの方針である」







独立独歩、自主自立。二足で直立歩行の姿そのものが心の姿である。







人類は未開・野蛮から文明・文化へ進んできたと今の人は皆そう思っているようだが、ほんとうは逆方向ではないか。遠い過去の人間たちは外見も持ち物も貧弱だったが、内には気高い誇り、とても温かい心配り、そして絶対にあきらめない決意を持っていたのでないか。だから、あらゆる困難を克服して生命のバトンを今日に至るまで渡してきたのであろう。






国際主義は国家主義の否定でもなければ、ナショナリズムの克服でもない。各国のナショナル・エゴイズムのへりをすり合わせて妥協することだ。まさに過去60年間、国際連合の中で踊らされてきた会議の成り行きは皆そうではないか。








戦争を肯定したのは、クラウゼヴィッツというプロイセンの職業軍人だった。・・・。戦争は、形態は通常の政治行為とは違うけれどやはり政治行為だと、言葉のアヤを操って、戦争は国家の権利と認めたわけだ。・・・。戦争は、人類のどのような公の場でも肯定されて承認されたことは今日まで全くゼロです。







政治工作を隠したり、自分らの失敗をごまかしたり、民衆の権力に対する不満を抑えたりするために、わざと戦争状態を工作してごまかそうとするなどだ。






戦争は、国民生活の中で全く惰性化していた。






世の中の大事な問題であればある程、それを世の中に持ち出すことにブレーキがかかる、そんな雰囲気が戦争中の社会に立ち込めていた。








戦争体制は、自分らの主張と行為に弓を引くものは、すべて利敵行為だ、国家への反逆として極刑で処理する用意をしているからだ。






その当時、私は世帯数が500の町内会の副会長をしていたが、物資の配給でちょっぴりでも不公平なあやまちをしたら、大騒ぎになった。何でもない顔つきで、実は生活内容をお互いに監視していた。家庭生活でも夫婦や親子のしっとりとした温かい心づかいまでが、外部からの刺激でひび割れを起こした。その根本の理由・原因は戦争そのものからきている事実を、私は若い人たちに語り伝えねばならぬ。








戦争に殺されまいとしたら、こちらが戦争を殺さねばならぬ、この厳しさをわが身に刻まねばならぬ、絶えず戦争を見据えて対決して、戦争を否定していかなくてはならぬ。・・・。
その時に日本には本物のジャーナリズムは存在しなかったのだ。そこからサラリーをもらって衣食をまかなっていた私は、ジャーナリストではなかった。







当時の日本人たちは本物の救いを求めていた・・・。新聞の復活は、新聞本来の姿に立ち返って努力するしかなく、本質の姿に戻れば必ず生き返ることができた。








「問題の本質をごまかしたり、すり替えたりしてはいけないよ。常に問題の本質と真正面から取り組んで、やるべきことをやり抜かないといけないよ、その努力を続ければ、きっと活路が拓ける。」







カオス(混沌)はものを産む圃場です








ヒューマニズム、デモクラシー、社会主義、そして資本主義です。その哲学と倫理の提唱者たち、その制度や事業の開拓者たちは、種種の歴史書にその名を星のように刻んでいるけれど、どれも実を結ぶに至らず、空転または崩壊しているではないか。なぜなのか。何が原因か。そこをまっすぐに抉り出して正解すれば、それこそは、まさに人類がこれから取り組まねばならぬ第三革命への道標そのものではないだろうか。







当時の女性は男性の愛玩物であり出産具だった。中世において男どもが戦争に出掛ける時には、自分の妻もしくは愛人に鉄製の貞操帯をはめて、カギは自分でもって出掛けたことでも想像される。そんなところで「人間第一」「男女平等」の思想が育つわけはありませんな。








そんな社会環境の中でイギリス人の口にしたヒューマニズムは「万民平等」でも「人権尊重」でもなく、人間らしい人間はどんな条件を満たさねばならぬか、その姿を描いたものだったという。







理想につながるものの考えや社会の仕組みを対象として検討する時には、言葉の持つ美しげな響きに自分からうっとりとする愚かさは厳しく切り捨てねばなるまい。








革命家と自称した人々ですら誘い込む毒が、権力そのものにあるのかな。それならば、人間生活から日没と停電による以外の暗黒を除去しようとしたら、どのような性質のものであろうと、一切の権力を人間の世界から放逐しないといけませんな。








人と人との結びつきで何が望まれるか。薄っぺらな愛ちゃんでもなければ、人のハートを凍らせる憎しみでもない。では何だ。この問いに、人間として人間らしい答えを自分で提示して生き営んでいく、それによって人は人になる、それが人間みんなの一人ひとりの課題だ、と私は考える。









「王は支配する、しかし政治責任は一切負わない」という絶対君主制は、人民の反抗を抑えつけるために法律と道徳というブレーキを人民に加えてきた。それに宗教集団が勢力を広げるにつれて君主制と抱きあった。そして、信者への戒律を厳しくして、人民のエネルギーを拘束した。とりわけ欲望の拡大と自由の飛躍は、悪魔に負ける罪悪だと縛りつけた。そのナワを資本制度経済は切り落として、人間のあらゆる欲望を解放した。自由への礼賛を大声で歌った。人々がそれを受け入れて、資本制経済が世の主流となってきたことは当然であろう。









戦争は、20世紀に関して言えば、資本主義を救う手段として使われてきた。こう断言しても反論できる国家権力は、どこにもおるまい、恥というものを知るなら。








いま人類にとって肝心の問題は、一つの社会制度の末路なんかではない。死ぬものは死なせて、生まれてくるものを生まれさせればよい。よくないのは、事実をごま化すことだ。事実をごま化して安楽の惰性をむさぼることだ。







お互いに胸に刻んでおきましょう。人間の尊厳を殺すものは、何であれ必ずみじめに自滅する。








「大きな間違いなら誰の目にも見えやすいだろうが、問題は小さなことの見過ごしだ。それが大きな悔いの種になる。人間の太陽に対する童話みたいな感情が、そのまま人間対人間に伝染したら、どうなる。英雄崇拝、英雄への依存、人民の自己放棄だ。仮説ではないよ。すでに幾たびとなく、そのみじめな喜劇を反復してきたではないか。それを何ゆえに放っておくのだ」








人間全員の一人ひとりがかけがえのない存在なのだ。そこの認識を踏まえて、そこから人間のあらゆる問題を考え直して出直すべきだ。








70億通りの人の生き方が毎日ばらばらに営まれている外観ではあろうが、しかし意識の内側では、人の喜びでも嘆きでも、それが切実なものであればあるほど多くの人々に共通していて、根っこは一つと強く感じて来ているのではあるまいか。







「人は人を支配することにしくじり、人に支配されることにも落第した」







学習あるいは教育という行為の本質は開拓、開墾であり、創造だと私は思っている。








車座を組む効果は、参加者たちがお互いに人格を敬いあいながら本音で学び合いつつ協力を強めていくのに適していることだ。この特徴を生かしつつ努力を続けたら、社会に新しい風を呼び起こすのではあるまいか。









「仕事に取り組む時、中途半端な態度なら一切手を出すな。取り組むなら、命をかけて、死にものぐるいで取り組め。そしたら道がきっと開ける」








やるべきことに全力で取り組んで努力するから、だからゆっくり生きられるのではないかと老人は考える。









「…。先生は、私は教師でお前は生徒だと言う。近所の大人は、おれたちは大人でお前らはガキだという。大人たちの声は、いつも上から下へ斜めに走ってきた。むのさんに会ったら、両方の声が同じ高さで行き交う。だから安心して、自分をさらけ出してものを言っているのですよ」







アメリカの政治権力の体質は大統領の皮膚の色なんかで簡単に変わるわけがないことだ。





抜粋は以上




to be continued  ・・・



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一枚の葉

 今、私は死んだ。 そして、その瞬間、自我が生まれた。 私は、一個の生命体なのだ。もう死んでいるのだが。 死ぬことでようやく自己が確立するのか…。 空気抵抗というやつか。 自我が生まれたが、自身のコントロールは利かず、私はふらふらと空中を舞っているのだ。  私はこの樹の一部だった...