2009年1月24日土曜日

心にきた言葉集17-2


努力論 (岩波文庫)


「自ら責めるということほど、有力に自己の欠陥を補い行くことはなく、自己の欠陥を補い行くことほど、自己をして成功者の資格を得せしめることのないのは明白な道理である。また自ら責めるということほど、有力に他の同情を惹くことはなく、他の同情を惹くことほど、自己の事業を成功に近づけることはないのも明白な道理である。」

今日は、他の同情を惹くとはどういうことなのかを考えたい。

他の同情を惹けば事業成功に近づくといっている。事業とは何かということだが、まず一般的に考えられているビジネスのことだと解釈しよう。

その場合、他の同情とは、資金提供者、投資家のことだろう。エンジェルといわれる人たちだと思う。

とすると、同情するとは、その事業の成功の手伝いをしたくなることだといえる。

ここで、事業ということで、それを成功するには金さえあればいいと考えてたが、それだけではないことに気づく。

人によって手伝いの形はさまざまだ。自分のできることは人によって違うから。

そう、やることは違うのに全員の見てる方向は同じ。

ここで、同情という言葉の意味をみてみよう。

同情:苦しんでいる人や悲しんでいる人に対してその人の気持ちになって親身に考えること。

苦しんでいる人や悲しんでいる人というのは、明らかに自分とは違う人という意味で幸田露伴は同情という言葉を使用していると思う。

そして、その人の気持ちになって考えるというとこがポイント。

まさにそれだと思う。自分の見てる景色を他の人にも見せる。あるいは見たくなる。これが他の同情を惹くこと。

これこそ魅力。カリスマ。

面白いのは、自分とは違う人と同じものを見るということ。正反対の概念が同居してるように感じる。”違う”と”同じ”。

どういうこと?

人という次元では”違う”。自分のする仕事の目的という次元では”同じ”。あるいは、こなす仕事の内容そのものという次元では”違う”。こなす仕事の目的という次元では”同じ”。

鶏と卵どちらが先かということと似てると思うが、あいつと違うからこの仕事ができる、または同じ目的を達成したいからこの仕事は自分がするというふうに、人と違うということが同じ目的を果たすためうまく補い合ってるように感じる。”違う”ということが”同じ”ということをたて、”同じ”ということが”違う”ということをたてる。

ここで復習。


努力論 (岩波文庫)


自分を責める:目標達成のためのモチベーション維持。また、集中力も高まる。

自分を責めることが他の同情を惹くとあった。

つまり、・・・

いつでもどこでも目標達成のため、走りまわっているあいつ。何をいったいそんなに夢中になってるんだ?と、話をついつい聞きたくなり訊いてみる。あいつの熱意に圧倒される。自分ではよくやってるように思うが、あいつ自身は満足してない様子。失敗談をいろいろ話してくる。でも、必ずそこから何かを見出し次にチャレンジしてる。聞いてるうちにうらやましくなる。充実した日々を見たくなる、あいつと同じそれを。

といったところかな。

結論:「他の同情を惹く」ということは、相手を巻き込むこと。

で、同じ目標を見てる人が多ければ、それだけ成功しやすくなるのは当然のように感じる。みんな自主的にそれを見ているからな。目指すべきはそこだ。

自分を責めることがすべての始まり。それは、自分を見つめる時間を持つということ。俺は、このブログもその一貫の一部と考えてる。自分は何を知っているか。

だが、今回の思考でまだまだ自分の甘さを認めざるを得ない。今まで、次に進めないという意味で自分を責めていた。自分をコテンパンにやっつけるために責めるんじゃない、継続して目標達成のため動くことを即すために責めるんだ。

はっきり言ってこの二日間の思考は論理的ではない。穴が多くて、そこには触れないように言葉を選んだ部分がある。でも、それは、どうにかプラスな結論にしたいという俺の想いがあったから。

この結論は仕組まれてるぞぉ!(笑)。


努力論 (岩波文庫)


以上
座禅をしようと思いました。
また、明日***

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